大工道具に生きる

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  大工棟梁 香川量平
(ちょうな)の話(4)

釿のうつり変り
古代金物博物館

私は大工に弟子入りして、半年を過ぎても釿はつりが上達せず、毎日兄弟子にからかわれ、何とか上達する手立てはないものかと思案の毎日でした。 十二月三十日、親方が今日は「釿仕舞い」だというので、仕事場を清掃し整理整頓し、親方の大工道具をはじめ、すべての道具を油拭し、墨壺は墨池の墨綿を洗い清めて寒の水で溶かした削り墨の墨液を入れて親方に手渡しました。 親方は釿刃を研ぎ澄まして、見事な曲がりの柄を仕込み、指金、墨壺、墨指、釿を三宝にのせて、御神酒と共に床の間に供え、掛軸は聖徳太子が指金を持ったお姿のものが掛けられ、正月の準備を手伝いました。 太子の前に供えられた親方の釿を見た時、その美しさに感激しそのような釿を新調すれば上手にはつりが出来るのではないかと考えたのでした。研ぎ場では兄弟子が正月がきたからと言って釿を研いで、顔をしかめながら髭を剃っておりました。
 夕方、手入れした大工道具に親方は御神酒を供え、大工道具に一年間のお礼をと、言って祝詞を奏上し、一同そろって御神酒をいただきました。 昔、名工と謳われた宮彫師の左甚五郎といえども、大工道具がなければ平凡な一人の人間にすぎないのだと親方は言って「釿始め」「釿仕舞い」についての説明をしました。 「これらの言葉は古く縄文時代に『石斧』が万能の道具であった頃からの名残りの言葉だと言って、年末の『釿仕舞い』には大工道具に対してお礼を忘れるな」と忠告しました。
 我が国には国宝の建造物が数多く残されていますが、建造物を手懸けた棟梁の名すら不明なものが多く、大工の片腕となつて建造物を作り上げた大工道具は露と消え去っています。 私が今お礼を言いたいのは大工道具を鍛えた刃物鍛治の皆さんです。 鍛治たちは自分の鍛えた刃物が、大工と協力して美事な建造物が平穏無事に建て上がることを夢見ているのです。 「鍛治たちが一鎚、一鎚に精魂こめて鍛え上げた刃物には鍛治たちのお正念が宿っているのだ、そのお正念というのは『式神さん』という大工道具に宿るという神様だ」と教えてくれたのは大阪の島という古老の大工の棟梁でした。 「この式神さんという伝説話は、棟梁の先代から聞いた話で、職人連中も良く覚えておいてくれ」と夕方、現場で御神酒をいただきながら聞いた話でした。
 「式神さんというのは、古い古い昔のこと百済の国(今の韓国)より多くの優秀な建築技術者(工人)が我が国に招かれました。その当時の日本の工人は堀立柱の建築方式でしたが、渡来した工人たちが建立しようとする建物は礎石の上に柱を立てるという新しい方式でしたので日本の工人たちは驚いたのでした。 渡来した時、彼等の道具箱の中には見事な大工道具が一杯に詰っていました。 日本の土地にも言葉にもなじみ、理解できるようになり、日本の工人たちは彼等の指揮のもと、真新しい工法の建物を手懸けたのでした。 しかし残念なことに彼等が百済から持参した大工道具が一つ減り二つ減りと紛失していきました。無断で借りた日本の工人たちは、その道具を正目手本として刃物は鍛冶屋に鍛えさせ、木の部分は自分が作り、正目手本とした道具より遙かに見事なものを次々と作り上げて行きました。しかし驚いたことに、無断で借りていた大工道具は複製されると、いつの間にか渡来した工人のもとにきっちりと返されていたのです。それを百済の工人は少しも驚きませんでした。驚いたのは日本の工人たちでした。 無断で借りたことを深く詫びて複製したことを伝え、それからお互いの交流が始まり、『規矩の技』も教えてもらったのだろう」と島棟梁は話を続けました。「百済の国から渡来した工人の中には『陰陽道』を会得した一人の棟梁がいました。棟梁は目に見えぬ『式神』を使って、大工道具が複製されると、日本の工人に持ち帰らせていたという面白い話ですが、その棟梁は、日本の鍛冶屋に大工道具を鍛えると『式神』が宿る呪術を教えたので、今も大工道具の刃物を鍛える鍛冶のお正念というのは『式神さん』であり、大工道具を愛する人は『式神さん』によって仲良くなり、この神によって人々が驚くほどの見事な名建築が出来上るのだ。 大工の相棒である大工道具を粗末にするな、大工道具なしで大工は生きて行けないのだ」と島棟梁は、私の親方が言っていた通りのことを職人一同に聞かせたのでした。


松田豊氏(右)
著者(左)

 この式神さんの話は何十年も昔に聞いた話で、今迄に数多くの人々に話したのですが誰も信用してくれませんでした。しかし唯一人奈良の「鉋博士」であり、色彩デザイナーである松田豊さんが、この話を信用してくれました。伝説話にすぎませんが、実のところ不思議に大工道具を愛する人が集まって、大工道具の話がはずむと、見知らぬ人ともすぐ仲良くなり、気心が溶け合い、数々の大工道具についての知識を得ることができるのは何とも不思議で「式神さん」の取り持つ御縁でないのか、などと古稀の歳になっても興味が尽きません。



釿始の図
『番匠往来』(1831年)

「閑 話 休 題」
 十二月三十日の夕方、親方の仕事場での「釿仕舞い」のお祓いが終わると親方から半年分の小遣いをいただき、私は作業服と下着を背負い、釿を新調したいと考えながら我が家へと急ぎました。 父母と弟二人が迎えてくれ「兄貴は歩く格好が大工らしくなった」と言うのです。 実際に外足になったのは事実でした。親方は毎日私に向かって「お前の歩く格好が大工らしくない『大工の外足、芸者の内足』という大工言葉の通り、外足で歩け、大工は高い所で仕事をせねばならぬ、外足が安全なのだ」と毎日のように注意されていたので外足になったのであろうか。母は腹一杯「銀めし」を食べさせてくれました。 戦後早々のその当時には「銀めし」(白い御飯)を食べられることなどありませんでした。 特に大工の弟子などは碌なものを食べさせてもらえず重労働の毎日でした。
 食事の後、父に「弟子入りして半年にもなるが釿はつりが上手になれず、兄弟子に毎日辛く当たられるので、この小遣いを足しにして釿を新調しようと思っているのだが」と恐る恐る相談すると意外に心良く承諾してくれ、「小遣いは持っていろ、二之宮村に『信安』という知人の有名な鍛冶屋がいる、頼んでやろう」と言って信安の昔話を聞かせてくれました。 「土佐鍛冶の流れを汲み、すこし荒っぽいが刃物の切れ味は抜群だ、話によると若い頃、自分の鍛えた大鉞を使って杣人とはつりの競争をしたり、釿を鍛えると大工とはつり試合をして勝ったことがあると言う異名を持つ変わり鍛冶だ」と昔話を聞かせました。
 正月の二日の早朝、親方の仕事場で、仕事始めと呼ばれる「釿始め」を行いました。 十四尺の松丸太を兄弟子が元から、私が末からはつり出したが三分の一ほどの時、兄弟子の釿が近づいて来て「どけ」と正月早々からどなられましたが、その当時の弟子は親方や兄弟子に楯突くことのできない鉄則の掟のようなものがあり、辛抱するしかありませんした。


奈良薬師寺の
釿始め

 新年の事始めとしての「釿始め」の儀式は厳島神社など全国で十数カ所で行われていますが、自主的に各地で復元されつつあると言われています。 釿始めの古い儀式の原型が「古語拾遺」と言う古い書物に残っているそうですが、釿始めを「木作始め」ともいって、木の樹魂を鎮める祭事であったようです。 釿始めに歌われる「木遺り歌」など、奈良薬師寺の釿始めの儀式以降、聞いたことがありません。
 父と「信安」に会ってみると私に「手をみせろ、器用な手をしているが、かなり手を痛めている、釿で向う脛をやったことがあるか、三回や四回は向う脛に釿をぶち込まんと上手になれぬ。いい釿が仕上がっている、釘も切るという逸品だ、若いお前には品が良すぎる、琴平宮の宮大工の棟梁に依頼を受けて鍛えた三挺の内の一挺だ、持ってみろ、柄を脇の下に入れて右手で柄の先端が握れるか。」「いい具合だ」と言ったら「すこし山を高くしておいて良かった、今の若者は背が高いからのう」と言ったので「山とは何ですか」と聞くと、「お前は大工だろうが、鍛冶屋に聞くとは何事だ、昔の釿の仕込に言われている『七寸山の四分こごみ』という言葉を良く覚えておけ、この言葉を知っておれば柄の仕込は何のこともないのだ。 大工どもは「釿買うなら櫃を買え」と言って釿の櫃ふれを嫌っている。その釿はすこしの櫃ふれもないから安心しろ」と信安が私に忠告した言葉が十分に納得できないまま「はい」と答えていました。
 父の支払が終わると「お前に怪我なきようこの「信安」の釿にお祓いをしてやろう」と言って御幣を持ち出して本式のお祓いをしてもらいました。その釿を手にした時、私は妻を娶ったような嬉しさでした。 その後「信安」の釿によって兄弟子を見返したのは言うまでもありません。しかしこの逸品の釿も二十五年の後に「さい」をやらねばならぬ運命にさらされました。釿の刃先の鋼が摩滅し、新しい鋼を入れ換えなければならなくなったのでしたが、見事に復元され、私の片腕として長年働いてくれました。