大工道具に生きる

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  大工棟梁 香川量平
(ちょうな)の話(6)

ペリー地方の釿
国立民族博物館蔵

 第十回「削ろう会」の安来大会の会場の昼休み、神奈川県厚木市の大工棟梁、前場幸治さんと東西の大工道具の話をいたしました。数ある大工道具の中には呼び名や使い方が東西ですこし違っている道具がありました。「釿」では昔「てうな」と関東では呼び、関西では「チョンノ」あるいは「チョンナ」と呼んでいたことを知りました。「釿」の語源には諸説はありますが、松山市の鍛冶師白鷹幸伯さんは、古い昔「ておの」と呼んでいたのが次第に「ちょうな」という言葉に変化していったのだろうという白鷹説が正しいと、二人の意見が一致しました。
 釿の歴史は大変に古く、弥生時代の掘立式の建築には釿が主役として大いに役立ったものと考えられます。飛鳥時代には大陸より仏教導入と共に仏教建築が紹介され、礎石の上に柱を立て桝組で軒を支え、屋根には瓦を葺く新しい建造物を作り上げました。渡来した工人と共に働いた日本の技術は渡来した工人が持参してきた数多くの大工道具を正目手本として、新しい日本式の大工道具を作り上げて、世界遺産で、現存する最古の木造建築、法隆寺を作り上げたのです。白鷹幸伯さんは、法隆寺大工棟梁、故 西岡常一氏より法隆寺修理の折、「やりがんな」と古代釿の刃跡が残る桧の木片をいただいている。白鷹さんはその刃跡を考察して、「やりがんな」と古代釿を復元しています。私は木片に残る刃跡の力強さに驚きました。古代釿は櫃が貧弱で両手で使用するのは無理であるという説がありますが、私は片手釿などではなく両手を使って使用したものと断定いたしました。


春日権現霊験記より

 昔の絵巻物の写本の「春日権現霊験記」「石山寺縁起絵巻」の中に釿を片手で使っているのが見られるのですが、これらの絵図は絵師が釿という大工道具を理解せずに描いたもので信用できません。釿という道具は片手などで幾日もの使用に耐えられるものではありません。耐えられるとすると「手釿」と呼ばれる片手用の小さな釿です。釿ばつりを三日間続ければ体力の消耗がはげしく、夕方、釿の柄から手が離れなくなり、一本一本の指を引き離さなければならない状態になるのです。この苦痛は釿ばつりの経験を経た古い大工でなければ知り得ないことです。釿の柄は槐の木で作られたものが最高で掌の汗を吸い取り摩擦をやわらげる利点があるのですが、幾日も使用する折りには槐の柄でもいろいろと無理が生じるようです。


中世以前の
出土鉄斧
竹中大工道具館蔵

 古代釿は櫃が貧弱であるため両手使いは無理であるという通説がありますが、両手で使っても大丈夫と言ったのはアメリカ人のアラン・トリゲイロさんでした。彼は第十回の「削ろう会」安来大会に古代釿を持参してアメリカの「削ろう会」から参加して下さった青年でした。直井棟梁より釿使いの指導を依頼されていましたが彼の釿使いに非の打ちどころがなく私よりも上手だと直井棟梁に申しました。唯、日本には化粧ばつりという技法があり、大工の技術を人に見せるための「矢羽根ばつり」を説明し、指導いたしました。
 「削ろう会」安来大会の会場では前場幸治さんとの大工道具ばなしが続いていました。東西の話で少しの違いもなかったのは「本ロツソレタノヤマキ」という大工言葉でこの言葉は昔の大工が使っていた数字の隠し言葉(隠語)でした。私が若い頃、古老の大工がこの言葉を使って話をしていたのを一度聞いたことがあります。「本」は1、「口」は2、「ツ」3、「ソ」4、「レ」5、「タ」6、「ノ」7、「ヤ」8、「マ」9、「キ」0(ゼロ)という数字を表します。「本キキ」と言えば100で百の数字を表わす意味です。大工には面白い隠語が今も数多くあります。「下端」と言えば木材の下側ですが、隠語では「妻」を意味します。女は下になるからです。「下端を取り付ける。」と言えば隠語では「嫁をもらった」ことです。大工の隠語については後日、書かせてもらいます。
 前場さんと最後に足に残る釿の傷痕を見せ合いました。前場さんの左足には大きな釿の傷痕が数カ所ありました。私は右と左の向こう脛に釿の傷痕が残っていますが、この傷痕を見るたびなぜか昔の無念さが身体の底から込み上げてきて目頭が熱くなってしまうのです。


岩国型
著者の釿

 真冬でも暖かな瀬戸内ですが珍しく、シベリアからの冬将軍が押し寄せてきた寒い日のことでした。親方は大きな木造の家を請負っていて、親方と職人二人、兄弟子と私の五名で家の上具材に使う大きな松の丸太を十二角に釿を使って瓜むぎしていました。私は「信安」が鍛えてくれた釿を使って兄弟子をどんどん追い上げていました。「十時が来たから休憩だ」と寒風の中で親方の声がした時、最後にはつった釿刃が向こう脛に「コツン」ときたのです。「シマッタ」と思ったのですが後の祭り、脳髄を突き抜けるような痛さを感じました。傷口は白く、兄弟子が急ぎ、血止のヨモギの青葉を揉み解し、鉢巻を裂いてぐっと縛ってくれた時、首筋に「ピシャッ」と指金が飛んできたのです。血が首筋を流れ落ちるのを感じました。「ぼやぼやしとるからだ」と大声で怒鳴られたのです。うつむく私の目から大粒の涙がポタポタと落ちたのです。大工の三宝の一つに数えられる神聖な指金が一変して凶器と化すのです。


釿の各部名称
竹中大工道具館より

日本の指金の中には数知れぬ規矩術が潜んでいるのですが、指金の神である。「八意思兼神」は手荒な神であるため凶器と化し、大工の弟子たちは、この神を誰もが恐れていました。私はその時親譲りの短気が爆発し、堪忍袋の緒がとうとう切れたのです。涙を押え、畜生と小声で言いながら痛む足で立ち上がり、親方に向って、「大工はもう止めた」と大声で叫んだのです。職人や兄弟子が驚いた顔で私を見つめていました。兄弟子が「辛抱しろ」と言うのを振り切り、痛む足をかばい自転車に乗り、一目散に家へと逃げ帰り、戸口の前で「今日で大工は止めるぞ」と大きな声で言ったのです。私の大きな声に驚いて、前のイソ婆さんが私の血を見て「量さん一体どうしたんだ」と震える声で「早く血止を」と小さな婆さんが私を家に押し入れようとしました。婆さんは私を子供の頃から、我が子のように可愛がってくれていました。家に入ろうとした時、母が「マッタ」と言って私を家の中に入れようとしません。婆さんが「ソノさん、この子は血が多く出ているので顔が真っ青だ、早く血止をせねばならん」と言って婆さんは必死になって私を家の中に押し入れ、父の血止の手当てを受けたのです。父は私の顔色を見て「親方の辛抱ができなかったのか」とききましたが、私は何も答えませんでした。「昔から大工の弟子は誰もが二度や三度は親方や兄弟子の辛抱ができず逃げ帰っている。お前がいつ逃げ帰るのかと心配していたが三年目とは良く辛抱したものだ」と私が逃げ帰ることを予測していたようでした。私は父の薬草での血止の手当てを受けながら痛みを堪え、母が「マッタ」と言った一言を考えていました。


彩画職人部類より

私が大工になると父母に打ち明けた時、母は「お前の貧弱な身体では無理だ、兄たちのように大學に入って勉強し、いい会社に就職すれば一生涯安泰だ」「勉強は嫌いだ、刃物と木組が好きだ」「お前は父譲りの短気もので、言い出したら後に引かぬ悪い性分だ。大工の修業には耐えられないで、逃げ帰るのがおちだ」「決して弱音など吐くものか、どんな大工仕事もできる職人になり、将来は建築のすべてを知りつくし誰にも好かれる大工の棟梁になるんだ」「ほう、大工の棟梁だと、とっと(鶏)が笑うわ」と母と押し問答をくり返していましたが、言い出したら後に引かぬ私の性分を知る母は「お前の思う通りにしろ、但し言っておくが大工の修業が出来ず途中で逃げ帰っても決して家に入れないから覚悟して弟子入りするんだぞ」と母に釘を刺されていたのです。だが、とうとう弱音を吐き、逃げ帰った今、母に負け、大工の棟梁になるなどと言った夢も消え失せ、将来どうしようか、母にどう言ってお断りしたら良いのかなど、心の中で泣いているうちに、私は深い眠りに落ちて行ったのです。翌日から父が作った寒鮒の刺身を毎食腹一杯食べ、「好きなうどんは傷には毒だ」と父は言って傷口を「ゲンノショウコ」の煎じ汁で洗ってくれました。ゲンノショウコの煎じ汁が良く効いたのか、鮒の刺身が功を奏したのか傷口の回復は意外に早かった。回復後、父母に諭され、親方にお断りして大工の道に復帰しました。その後二年間一生懸命になって精進したのは言うまでもありません。



大坂型 舟形 奴型
与板金物博物館

 閑話休題(はなしはさておき)
 会場で私の話を聞いていた前場さんも、その当時を思い出して涙ぐんでいました。その当時の大工は朝早くから夕方暗くなるまで仕事をしていたので「大工の釿さがし」という大工言葉が今も残っています。暗くなるまで仕事をするので釿の所在がわからないという意味です。「雍州府志」に書かれていた「径五寸余りの釿刃」の記事は筆者、黒川道祐の見まちがいか、書きまちがいではないかと私は思います。釿刃は三寸六分までです。使い手の体力に合わせて鍛え上げる日本の釿鍛冶は、釿を使う大工の力量を知り尽くしているのに敬服いたしています。