大工道具に生きる

0875(25)4468
  大工棟梁 香川量平
(かんな)



千代鶴是秀の作

 私が大工の見習であった頃、鉋のことが知りたくて兄弟子にいろいろと聞いてはみたが、少しも相手にしてくれなかった。しかし、年配の職人がいろいろ教えてくれるのが楽しみの一つであった。親方から最初にあてがわれた鉋は「おばば鉋」というあだ名の付いた寸四鉋で、台はすり減って薄く、鉋刃は研ぎちびて小さく、頭を叩かれ、尻を叩かれて身は細く痩せ、仕込み溝には鉋刃が何千何万回となく出入して緩く、まるで哀れな老婆に見えるところからこの呼び名がある。そのような鉋で杉の野地板を研いでは削りの毎日であった。兄弟子が「お前は今日も鉋のけつ押しか。」と言って私をからかった。そんな情けない日が続いている時、親方が刃毀れした寸六鉋を金剛砥石は使わず「青砥で研ぎ付けろ。」と言った。私は正直に三日がかりで刃毀れを研ぎつけた。親方が「辛抱強くよくやった。」と誉めてはくれたが腰や手首が痛くて閉口した。後で知ったことだが、あの男に刃毀れの鉋を三日もかけて青砥で研ぎ付けさせたのは研ぎの練習をさせるためであったと兄弟子から聞いた。今考えてみると、少し腹立たしくもあり、無念さが今も込み上げてくるのである。研ぎつけた鉋刃を親方は「裏切れだ。」と言って「裏出しをするから見ていろ。」と言った。そして、鉋刃を脇下に抱え込み温めてからちょうなを横倒しにし、ちょうな刃の側面に鉋刃を当て、研ぎ面を「コヤスケ」と呼ぶ鎚で「カン、カン」と思い切り叩くのである。初めて見る裏出しには唖然とした。そして、親方は「金盤を取れ、その鉄の砥石のことだ。」と言った。私が渡すと、金盤の上に黒くて細かい粒状の金剛砂を乗せ、水を少し加え、鉋刃を押さえ板で力まかせに押し切った。そうすると、鉋刃の裏が出てみごとに光った。親方は「これでよし。刃を研ぎ付けろ。」と言う。私はその後五十数年間、裏出しをやってきたが難しく、今も上手になれない。使っては裏出しをし研ぎをするということを永い間しているうちにいつの間にか穂は短くなってしまう。鉋刃を苦労しながら研いでいるのを見かねてか、年配の職人が「甚五郎研ぎを教えてやろうか。」と言って鉋刃を二枚の板で挟む治具を作ってくれ、大変楽に研げるようになり喜んだ。それは、昔、左甚五郎が大工の見習の頃考え出したという方法で、今も甚五郎研ぎという大工言葉がある。毎日「おばば鉋」で削る私の姿が哀れで不恰好に見えたのか、職人達が口ぐちに「いい鉋を一丁買ってもらいな。」と親方に聞こえるように言った翌日、親方が使っていた寸六鉋が手渡された。鉋台は厚く「孫六」と銘の入った鉋であった。昨日とはうって変わり大変楽に杉板が削れた。寸四のおばば鉋は「これで台直鉋を作ろう。」と親方が言って数日後、台直鉋に変わった。台直鉋を手にした私は、鉋台の調整を親方から見習い、研ぎも削りも次第に上達していったのである。甚五郎研ぎを教えてくれた年配の職人からいろいろな大工道具の話や昔話を数多く聞いた。特に印象に残っているのが左甚五郎の話である。桃山建築が隆盛を極めていた頃、親方、遊左与平治のもとで長い年期奉公を終えた甚五郎は道具箱を片手に放浪の旅を続け、全国各地に数多くの名彫刻を残している。しかし建築学の大家である伊藤ていじ先生は、左甚五郎という人物には「伏見系」「讃岐系」「紀州系」「和泉系」という様々な系統が混ざっているので、浪曲や講談で一人の名人左甚五郎となっていき、英雄宮彫師としての逸話が全国各地で今も根強く残り、語り継がれているのであろうと説明している。天骨と言われた甚五郎の指紋は指十本すべてが右巻であったといわれる。右巻の指紋は器用の証しでもあり、今も大工には右巻の指紋を持つ者が多い。私が大工の見習に入ろうと親方を伺った時「右手を見せろ。」と言い「右巻の指紋が三本ある。大工になれるかもしれぬ。」と言った。また私の掌を耳に当てて「うん、爆音が聞こえる。」なども言ったが、その理由は今も分からない。指紋が犯罪などの解明に利用されるようになったのは二十世紀に入ってからのことだが、指紋は古い昔から本人を立証する役目を果たし、今も印鑑としても使われている。しかし実際には、人間の生活用具を持ちやすくするための、すべり止めの役目を果たすためにあるのである。中国の旅行先で聞いた指紋の話では、右巻や左巻の渦になっているのを「斗」と呼び、流れているのを「簸箕」と呼ぶそうである。斗が一つだと一生涯貧乏暮らしで、二つあれば、まあまあで、三つ四つあれば金運の道ありという。斗とは水を汲み上げる柄杓の意味があり、吉だという。「簸箕」とは風で物を飛ばすという唐箕の意味を持ち、金銭が懐に入っても風で飛んで行ってしまうので一生涯貧乏暮らしで、中国では凶であるそうだ。




二代目千代鶴太郎の

「初契」の鉋

  さて十個の右巻指紋を持つ左甚五郎は多くの職人の中でも鉋かけの名人といわれ、彼はなかなかの知恵者でもあった。親方与平次の請け負った工事の遅れを甚五郎が挽回するという浪曲が面白い。彼は普請奉行に申し出た。「ここにある二枚の松板を削り、鉋屑で結び、一時の間、泉水にしまする。もし、その二枚の板が剥がれるならば、工事の遅れは私めが切腹相申し受けまする。」と大きく出た。気を揉んだのは親方与平次や多くの職人たちであった。しかし甚五郎は成算ありと平然としていた。「それもよかろう。」と奉行達が見守る中で、丁寧に二枚の板を削り、鉋屑で結って泉水に浸し、一時が過ぎて取り出した板は奉行達の力で到底剥がすことはできなかった。浪曲の一番力の入るところである。どのような良質の材でも水に浸すと木表側に反り上がるのが常である。甚五郎の削った松板は水に浸すと数分で松脂が吹き出す黒松で、強力な接着剤の役割を果たしていたのである。素早くその計算をし、実行に移したところに彼の優れた知謀があったのである。二枚の板が剥げなかった理由にもう一つの説がある。台所で使われている俎板(まないた)や、木工職人の木型師が使う朴(ほお)の板を甚五郎がつかったのではないかというものである。朴という木は材質の繊維が均一した構造となっていて木の乱れが少なく、よく乾燥した材であれば水分の吸収が速く、板同士が吸い付きやすい。甚五郎が削った板の表面は真っ平らであった。そして奉行の目をかすめ、二枚の板を結び合わす時、続飯の原料である「カンバイ粉」を板の間にまぶした。泉水に浸した時、カンバイ粉が続飯となって接着剤の役目を果たし、奉行達が剥がすことができなかったという説である。いずれの説にしろ二枚の板を少しの狂いもなく真っ平らに削るというのは、かなり熟練した削りの技術を会得したものでなければ成し得ない。伝説話にしろ、削りのプロ達の一番難しい所をうまく浪曲や講談で語らせたところに英雄、左甚五郎の魅力がある。しかし見事に削ったという彼の一枚鉋はその当時、どのような鉋鍛冶が鍛えたものであったのだろうか。また誰にも見せず、袖の中に隠し持っていたという「袖鉋」は台直鉋のことだろうか。正確に鉋台を調整するには台直鉋や下れば、そのような削りは成し得ない。このようにこの話には不思議な点が多いが、しかし今も年配の大工は左甚五郎を夢に持ち続けている。




    舟弘作・弘法鉋

 左甚五郎が活躍していた桃山時代に使われていた鉋はすべて一枚鉋であった。甚五郎が削った柱には一匹の蝿も止まれなかったという逸話があるが、一枚鉋で入念に仕上げた木肌は長年の間使い込むと深い光沢を増す。また一枚鉋が最高の切味を発揮する時、鉋刃は糸裏と呼ばれる状態であるため「鉋の糸裏、女の上つき」という大工言葉が今もある。この言葉は調子の良いことを意味している。
 日清、日露の戦後、大工仕事が大変に忙しくなってきた時、大工職人に喜ばれたのが「二枚刃鉋」であった。裏金と呼ぶ押さえ金が取り付けられ、木を削るとき、簡単に逆目を止めることができるので大工仕事の能率が上がり、大変に好評を得たので全国各地に急速に普及していったといわれる。しかし二枚鉋の削り肌は本当の削り肌でないという批判が多く聞かれた。一枚刃鉋で仕上げたのが本当の削り肌だという大工職人が多くいたそうである。昔から、見事な鉋屑を削り出す大工は腕も良く、いい大工と言われた。そのように言われたくて大工は名工が鍛えた鉋を追い求め、天然の仕上砥石にも大金を投じる。昔、腕の良い宮大工の棟梁がいた。この長男が父に弟子入りし毎日厳しい修行を受けていたが耐え切れず、一年余りで家を飛び出し東京へと向かった。その後、心を入れ替え、苦労しながら大工道に邁進した。東京にはその当時、石堂や千代鶴の名工が鍛えた鉋があった。彼は全財産をはたき、千代鶴是秀の鉋を購入し、明治神宮の造営工事に加わった。彼は是秀の鉋を入念に研ぎ上げ、会心の鉋屑(削り華)を音信の絶えていた父親に送った。父は削り華を手にして息子の腕を誉め、削り華を神棚に供えて涙を流したという話が今も大工の間に語り継がれている。
削りには七つの条件が出揃わないと何ミクロンという削り華が出ない。昔、安来市の和鋼記念館に故、野村貞夫棟梁が削り出した10ミクロンという削り華が展示されていたことがある。ミクロンの削り華を削りだすのは至難の技である。高知県出身の棟梁は長岡郡にある白髪山の官材の柱を求めてよく訪れていたという。年に一本か二本しか産出されないという材である。削りの条件の中にある木材の選定というのを棟梁は心得ていたのであろう。大工は会心の削り華が出ると鉋を購入した鍛冶に郵送する。鍛冶は削り華を手にし、焼入れした鋼の良し悪しを読みととり研究を怠ることなく努力する。大工と鉋鍛冶が削り華によって結ばれているのが職人の世界である。 



碓氷謙吾氏の鉋

著者蔵