大工道具に生きる

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  大工棟梁 香川量平
(まさかり)の話(1)

筆者の持つ鉞
土佐型

 今を去ること約千三百年昔の奈良時代に舎人(とねり)親王らによって「日本書紀」という書物が書き表されました。 その主な内容は古い神代の時代から第四十一代の女帝であった持統天皇までの皇室の歴史などが書かれております。 またその数年前に元明天皇の勅命によって太安万侶(おおのやすまろ)らが「古事記」も書き表しました。 しかし両者とも難しい漢文で書かれているので、そのうち学者たちによって誰もが容易く読めるように書き改められ、現在に至っております。 しかし文字を知らなかった神代時代の神話の話などは「語り部」という朝廷に仕えていた記憶力の優れた人たちによって、親から子へ、子から孫へと語り伝えられていました。 その「日本書紀」第十四巻の項に第二十一代の雄略天皇の説話が書かれております。
 「秋九月に木工(大工)の韋那部眞根(いなべのまね)、石を以て質として、斧を揮りて材を削る。 終日削れども誤りて刃を傷めず。天皇、そこに遊詣して不思議がりながら問う『いつも石に誤ってあてることはないのか』と言った。 眞根、『決して誤ることはありません』と答える。天皇は官女を呼び集めて衣服を脱がせ、たふさぎして、眞根の見えるところで女相撲をとらせた。 眞根しばらく停めて仰ぎ見て削る。不覚にも手の誤りに刃、傷つく。天皇は因りて眞根の罪を責めて『どこの奴だ、朕を恐れもせずして貞しからぬ心を用いて軽率に嘘を答えておいて』と言った。そこで物部に託して、野に刑させようとした。 ここに仲間の大工がいて、眞根を嘆き惜しんで、歌詠みして。『惜しいなあ、葦那部の工匠(大工)よ (彼の)懸けた墨縄 彼がいなかったら誰が懸けるのか 惜しい墨縄』天皇は、この歌を聞き、後悔して、ため息をつき嘆いて『もうすこしで人を失うところであった』と言い、すぐに赦す使いを甲斐の黒駒に乗せて刑場に馳らせ、刑を赦した。 そこで結縄を解いた。また歌を作った。『ヌバタマのように真っ黒な 甲斐の黒駒に鞍をつけていたら 命を落していたろうな 甲斐の黒駒よ。』と。」眞根の救命にあたった仲間の大工や眞根が喜びの声で詠んだのであろう。


大鉞をはつる
(削ろう会会場にて)


 しかし「雄略記」に大工道具の斧や墨縄(墨壷)が登場しますが、その当時の斧や墨縄はどんな形をしていたのでしょうか。 墨縄と呼ばれていた墨壷は現在のように優れているものではなく幼稚なものであったと思われます。 故吉川金治氏は斧の著書の中で、韋那部眞根が、その当時使ったと思われる斧は、 大阪の富田林市の眞名井古墳から出土した斧のようなもので丸太の側面を削って角材にしていたものでないのか、そのような斧で丸太を削るならば、油断すると石の質で刃を欠く可能性は大いにあると説明しております。 しかし私はそのような幼稚な斧ではなく、眞根が削っていた斧は大型の優れたもので、現在、中国などで使われているのと同型のものでなかったのでしょうか。現在、各地の遺跡で発見されている建築跡の柱穴は直径が五十センチ以上のものが多くあり、その柱穴から推察すると、かなり大きな建造物であったことを伺い知ることができます。 掘立柱とはいうものの、これだけの建造物を建築するにはかなり高度な建築技術を持つ大工と優れた大工道具が必要と思われます。 そのような優秀な建築技術を持つ大工の棟梁である韋那部眞根が、些細な間違いで雄略天皇になぜ殺されようとしたのでしょうか。 いろいろと説はありますが、「日本書紀」に登場する雄略天皇は誤って人を殺すことも多く、天下から悪い天皇であったという説があります。しかしその反面では意外に積極的に大陸の文化を受け入れようとした積極的な天皇であったとも言われています。 すでに百済では仏教建築が行われ、掘立柱などではなく、礎石の上に柱を立て、桝組で軒を支え、屋根に瓦を葺き、 木部や大きな丸柱に丹を塗り、高層の見事な仏教建築が建立されていたのです。 雄略天皇は百済の高度な仏教建築に着眼し、その建築を導入しようと考えていたのかも知れません。 仏教建築を知らなかった新羅系の韋那部の技術集団は次第に百済系の工匠たちによってその地位を追われます。 韋那部眞根が些細な間違いで死に追い込まれようとしたのは、韋那部の技術集団の没落を意味していたと思われます。 しかし今も上棟した家には三つの間違いをするものだという言い伝えが昔からあります。雄略天皇も眞根が建てようとした宮殿に、間違いをつくろうとしたのかも知れません。 昔から「完全無欠の家は建てるな」という諺が大工の間で言われております。すこしの間違いもなく完全無欠で仕上げられた家というのは、山の頂上に登りつめた状態を意味しています。 次は下り坂となります。完全無欠で仕上げられた家は、次第に家運が下り始めるのだと昔から言い伝えられているのです。 大工の棟梁は施主の家運が上昇するよう三つの間違いを作り、家を完全無欠には仕上げず、九分九厘で留めていたのです。また左官の棟梁も、壁塗りを完全に仕上げず、九分九厘で留めていました。 今も古い家の床の間の落し掛けの裏側は土を塗らず、小舞の竹が見える状態で残されています。また基礎工事に携っていた昔の人々でも、建築の敷地内の焼物(瓦や瀬戸物)はすべて撤去していました。 その理由は古い昔、第十一代垂仁天皇の御代、大変に長寿であった野見宿禰(のみのすくね)の勅願によって、皇后日葉酢嬢(ひばすひめ)の崩御のときより殉死(生き埋め)の習慣を改め、陵墓の周囲に焼物の埴輪を埋めることに改め、実行したという伝説によるもので、今も建築の敷地内に焼き物を埋めるのは墓地に通じ、凶であると人々は信じているのです。
 今も日本人は建築に関して、いろいろと「吉」とか「凶」という考えを持っている人が多くいます。 二間に四間の家は「死に間」とか、平屋の家に二階を増築するのを「御神楽」とか「子なしの大黒」「巽の玄関」「巽の大黒、乾の弁財」「鬼門」「神前、寺横」「岬、谷口、宮ノ前」「長男は東に」「産土(うぶすな)の神」「敷地内の焼物」「乾の厠に巽の井戸」「逆さ柱」など数多く忌言葉があります。 「逆さ柱」というのは、末と元が反対になっている柱のことで、大工が間違って、逆さ柱などに建てると「苦しい」と真夜中に唸り声がしたり、「葉っぱ妖怪」が出て、その家に住む人の夢の中に現れて、毎晩のように脅されるという言い伝えがあります。昔、無知な大工が床柱を逆さ柱に建てたため、その家は没落し、大工は病死したという話も残されています。


雨宮国広氏の鉞

 閑話休題
 日本書紀の雄略記に登場した新羅系の韋那部技術集団の棟梁であった眞根が、石を質にして使っていた斧は、どんな形の斧であったのでしょうか。 故吉川金治氏は大阪の眞名井古墳から出土したような斧でなかったと著書の中で説明していますが、刃巾が約五センチという小さな斧では、大きな堂宮建築には無理と思われます。この小さな斧は、立木の伐採用に使われた「切り斧」でないかと思われます。 竹中大工道具館の渡辺主任研究員の調査報告書によると、法隆寺の古垂木の中には、釿はおろか、斧で斫ったままで、巾の広い斧刃で「ずばり、ずばり」と斫られていると説明しております。 その当時、すでに刃巾の広い斧があったものと思われます。斧は古代の石斧と同じく縦斧と横斧があり、縦斧には「与岐」「鉞」「手与岐」「鉈」の四種類で、横斧は「釿」「片手持ちの手斧」の二種類となっております。与岐は昔から、立木の伐採用に使われてきました。 四国では薄刃で軽く、鋭利な与岐を「切斧」とか「切木割」とも呼んでおります。肉厚があり、重い与岐を「木割」と呼び、薪割に使っておりましたが、現在ではほとんど使われておりません。鉞は「刃広」と呼ばれ、丸太材の側面を斫って、角材を作り出す道具でした。古い昔、中国では皇帝のシンボルとして鉞が権威の象徴でした。また鉞は、戦争の武器としても使われました。 鉞を担いで熊に跨っている坂田金時(金太郎)の絵図や童謡を知らない人はありません。


鉞(マサカリ)
別名 ハツリ


 昔、木に対して、いろいろな作法がありました。 木樵(きこり)が山で木の伐採を行う前、山の神や木の神に対して、御神酒を供えて祈りを捧げていました。 この作法を「斧立て(よきだて)」といい、杣屋は「鉞立て」と言っておりました。 また大工は、家を建てるとき、斧や釿を入れることを「斧始め」とか「釿始め」と言って、御神酒を供え、関係者一同が、木に対してお祈りし、棟梁は工事の安全を祈願しておりました。