大工道具に生きる

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  大工棟梁 香川量平
(まさかり)の話(2)

著者所有の大工鉞

 大きな鉞を担ぎ、熊に跨り、丸に金の腹掛をして多くの動物たちを従えた怪力の金太郎は、日本の童話や童謡に登場して、今も語り継がれています。 また五月五日の端午の節句には、床の間に鉞を担いだ金太郎の人形を飾り、子供たちが元気に育ち、強い金太郎にあやかって欲しいと願いを込めています。 金太郎が担いでいる大きな鉞は、古い昔には鐇(たつき)と呼び、兵器や刑具に用いられ、人々に大変恐れられていました。昔、中国の皇帝は鉞を権威の象徴とし、出陣する武将に対し、皇帝自ら鉞を授けたといわれています。
 金太郎が担ぐ鉞は、相模国(神奈川県)の足柄山に住む、多くの動物たちに対して権威の象徴を表わす旗じるしであったのでしょう。金太郎は平安時代の後期に実在した人物で、二十一歳の時、源頼光に見出され、「坂田金時」という名を与えられ、頼光の家来となり、四天王の一人となりました。頼光は後に勅命により、家来の四天王と共に丹波国(京都府)の大江山に住む、酒呑童子という鬼を退治した話で有名です。
 西洋の童話の「イソップ物語」の中に「金の斧と銀の斧」の物語があります。欲張りのきこりが、最後に何も手にすることができず、自分の鉄の斧もなくしてしまう物語です。幼い頃、父母から、決して人間は嘘を吐いてはいけないと、きつく教えられたものでした。


くまたか艦の進水式の折の斧
(前場資料館蔵)


 金の斧と銀の斧といえば、今も大きな船の進水式に見ることができます。 船主側の社長夫人か令嬢が、白い手袋をはき、式場まで引いてある綱を、金色の斧で切断すると、大きな船体がゆっくりと海に向って滑り出し、綱に結ばれていたシャンパンの瓶が船首に当って砕け、船の前途を祝福するのです。 薬玉が二つに割れて、五色の紙片が散る光景は実に見事なものです。戦前、三菱長崎造船所で進水した「戦艦武蔵」は進水の準備が完了すると命名式を行い、造船所の所長が銀の斧で綱を切断したそうです。

「閑話休題」


千手観音が持つ鉞

 故、吉川金治氏の著書『斧、鑿、鉋』の中に「出土斧の追跡」という項があります。各地から出土した各種の斧を復元して実現した結果、次のように分類することができるように思うと説明しています。要点を抜粋して述べると、
(1)割斧型。これには二つの型があり、一つは短冊形の比較的大きなもので、上部に袋部を持つ。刃先が薄く袋部にかけて、次第に厚くなり、袋部は一方に飛び出していない。木を割るとき、つかえないためである。 この袋部に短い縦の雇柄をつけ、長い横柄にはめ込んで使用した。もう一つの型は刃が縦長の有肩のもので、輪切にした木を縦割りして、比較的短い板を作るための斧で、大型と中型がある。
(2)与岐型。頭部より刃の方がやや幅広く、袋部の下から撫肩で広がっている。刃は蛤刃のように外に張り出した円弧を描いている。 大型、中型、小型があり、伐木、薪割など、さまざまな用途に用いる万能的な斧。
(3)鐇型。肩を持つ刃幅広い斧で、伐採や木材を斫(はつ)る場合などに用いる。出土例は少ない。
(4)鉞型。短冊形で柄を挿入する袋部を持たない。この斧は最初は鑿か楔(くさび)ではないかと言われていたのだが、出土品の中央上部に斜めの角度で木材が付着していた痕跡が見られることから、木の柄に穴を開けて装着した斧であると推定された。 倒した木材の側面を削り、角材を作るのに用いる。
(5)手斧型。比較的小型で、肩がはっきり成形されている。他の斧と異なり、柄に対して刃が直角に挿げられている。 現在の手斧と異なり、両刃であり、側面から見ると袋部中央と刃先が一直線上になっているので鑿としても使用可能である。
(6)鑿斧型。肩がなく、縦に長い小型のもの。縦の柄を付けて鑿のように使用した。ただし両刃である。これに横柄を付ければ、斧としても使える。出土数が多いことから、広く普及していたようである。
 以上が吉川氏の出土斧を分類した六種類でありますが古代斧の使用範囲は広く、斧は鋸の役目を果し、鑿や鉋へと発展していったのであると述べています。
 我が国最初の漢和字書である「倭名類聚鈔」の工匠具、第百九十七の項に「鐇」「唐韻ニ云鐇ハ廣刃斧也」「斧」「兼名苑ニ云斧ハ神農造ル也、祕ハ斧ノ柄ノ名也」と書かれている。 「唐韻」とは中国の唐時代の字書で、六世紀頃に作られたもので、「倭名類聚鈔」には「唐韻」とか「切韻」「広韻」という中国の字書の名前が登場します。 「倭名類聚鈔」の字書は後醍醐天皇の皇女、勤子内親王の命により、平安中期の学者である「源順(みなもとのしたごう)」が書き表した、我が国の漢和字書であります。
 江戸時代の中期、大阪の漢方医であった寺島良安が書き表した「和漢三才図会」の中の第二十之三月録、兵器類の項に「戉(まさかり)」と「斧」が書かれている。 中国の字典である広韻の中に神農が斧を作った。神農というのは、中国の古い伝説上の帝王であり、斧の刃は広く、これを鐇という。 杣人、木を斫る者は鐇也、樵人、薪を割る者は樵斧である。軍中で所用するものは鉞也と書かれ、鉞が兵器であると説明しています。
 竹田米吉氏の「職人」という著書の中に、明治時代、建築の工事現場で働いていた職人の様子が書かれている。 「杣屋」押角は必ずはつらねばならない。大工事になれば、大工より能率の上がる杣屋に依頼した。 杣屋は、ただ木の面をはつる専門家である。大きな斧(金時の斧に似ている)を使用した。何寸角でも、角面一杯の木片を三尺も五尺も続けて出す。この木片はいかなる場合でも杣屋の物で、彼等の定収入であった。 杣屋の仕事場には必ず「木片屋(こっぱや)」が出入し、手ごろの束にして持ち出した。昔、東京の家庭で使用する焚付けに、立派な木片の束を売っていたが、あれは杣屋が斫った木片である。と竹田氏が十三歳の大工見習当時、幼い頭に映じた幻のような記憶の模様を書いている。
 現在では鉞で木材を斫る仕事を見ることは殆どできないが、山梨県塩山市に在住の宮大工・雨宮国広氏は今も鉞を使って木材の斫りを行っている。 鉞の斫痕が美しく、茶人などに好まれる。しかし、この斫りは危険が伴う荒仕事であり、鉞は名工の鉞鍛冶が鍛えたものが要求される。 戦前、岡山連隊の兵舎建設に従事した古老の大工から、工事現場で、杣屋が自分の足を斫り、大怪我をしているのを見たことがあると聞いたことがある。
 新潟県西蒲原郡分水町に宮大工、沖野工務店がある。棟梁の沖野幸平氏が現在使っている「難聴」という鉞を見せてもらったことがある。 大工用の中型の鉞であるが、沖野棟梁が長年愛用したが、欠けず曲らず見事に鍛えられ、何一つ欠点がなく、日本一という鉞鍛冶「難聴」の作品に感心していた。 この鉞は新潟県高田市の鍛冶屋が鍛えたもので「難聴型」と呼んでいる。初代の鉞鍛冶が耳が遠かったので、差別用語を避け、このように呼ばれるようになったそうである。


土佐型のはつり刃物
(高知県土佐刃物連合協同組合 発行)


 現在、鉞の他に割斧、切斧、小割斧と大工用の鉞と五つに分類されている。 竹中大工道具館の渡辺晶氏の調査報告書によると、現代の切斧の型が、(1)去手型(北海道)、(2)信州型(長野県)、(3)紀州型(和歌山県)、(4)土佐型(高知県)。
現代の斫斧では、(1)釧路型(北海道)、(2)馬追型(長野県)、(3)土佐型〈片刃〉(高知県)、(4)筑前型(九州)。
現代の大工斧では、(1)釧路型、(2)仙台型、(3)甲型(東北)、(4)東型、(5)高田型、(6)信州型、(7)名古屋型、(8)土佐型
で、その地方によって肉付や型がすこしずつ違っております。
 高知県では、徳川時代の初め「コウガイ型」とも「ニタリ型」(元禄時代の笄のかたち)とも呼ばれる純土佐型の斧が製造されたが、大正の初期より、県外から移入された型が見られるが、純土佐型は曲線美が豊かで、一種の風流味を与える美しい型であります。
 鉞や斧の胴に刻まれている筋を「流し目」とも「脂ぬき」とも呼ばれていますが、裏側の胴に刻まれている三本の筋は「み」、表側の四本は「よ」で「みよけ」となり、「魔よけ」の意味と昔から言われています。 昔、深山で大木を伐採する杣人たちに危害を加えにきた魔物に対して、この「七つ目」が法力を放って消滅させ、危険を防止させるという護符であり、伐採する大木の霊に捧げる呪文であるとも言われています。
 高知県では六百年の昔、鍛冶屋が斧や鉞に「七つ目」を入れだしたと言い、当時の迷信深い世相としては無理からぬことであったのでしょう。
この「七つ目」は古代天神(稲荷大明神)に伝えられている話によると、正式の「七つ目」は鍛冶屋が、神前で早朝刻み込んでいたと言うのですが、現在では略されています。


スイスのはつり斧
(竹中大工道具館蔵)

 この「七つ目」について讃岐の「信安」という名人鍛冶は杣人が深山に入り、大木を伐採するとなると、木の精霊に負けて伐採することができなくなるという。 鍛冶屋は、斧や鉞に七人の武将を護符として刻み、杣人が木の精霊に負けぬように御性根を刻んであると「信安」は言ったが、「七つ目」は、三者の神と四天王だと言った古老の鍛冶屋もいる。三者の神とは三天王で、摩利支天、弁財天、大黒天である。四天王は四方を守る護法神で、持国天(東方)増長天(南方)広目天(西方)多聞天(北方)であるとも言ったが、「信安」は四天王は、源頼光の家来である、渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、ト部季武であるとも言った。 三木市の坂田カンナに弟子入りしていたという鍛冶屋は、「七つ目」について「身を避ける」と三と四の護符を刻むのだとも言った。いろいろな説があって興味深い。