大工道具に生きる

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  大工棟梁 香川量平
(のこぎり)の話(1)

木の葉型鋸
複製品

 私が初めて鋸という道具を手にしたのは肥後守というナイフを持ち歩いていた小学生の頃で、手にしたという鋸は、隣の鍛冶屋のおじさんから頂いた、薪挽鋸が半分に折れたものであった。しかし、その鋸の歯が小さいので、竹細工などには最適で、夏休みの宿題に、その折れた鋸で作った工作が金賞になった思い出がある。
 さて、鋸の歴史は大変に古く、ルーツを探ると、古代のエジプト時代に遡る。第18王朝の時代のものと思われる銅製の鋸が、ピラミッドの石の間から発見されているが、この銅製の鋸が世界最古のものとされている。厚木市の前場幸治氏が、建設大臣であったレクミラ墓の奥室の壁画に鋸を使う工人の姿をカメラに収めている。左手で木を持ち、右手で鋸を使っている。おそらく銅製の鋸であろう。刃渡りはおよそ50センチ程のように見える。今より約3,500年の昔に描かれた壁画である。


レクミラ墓の壁画
前場資料館蔵

 1954年「クフ王」のピラミッドの南側から解体した木造船が発見されている。材はレバノン杉で、クフ王が天国に乗っていく船であったという。現在組み立てられて展示されている。全長約43メートルで、その当時かなり精巧な細工ができる船大工の道具が揃っていたものと思われる。鋸なども大、中、小とあり、大割から小割まで行っていたのであろう。今より約4,600年の昔のことである。近頃ピラミッド周辺でもう一艘の木造船が出土したという。こうした木造船を見ると、細工はよく施され、すべての道具がかなり整っていたのであろう。
 西洋の鋸はすべてが押し式であるが、日本の鋸は引き式である。1877(明治10)年9月8日、アメリカ人の動物学者であるエドワード・S・モース氏が、東京で日本の大工が仕事をしている様子を日記に書き残している。「この国(日本)にきた外国人達がまず気付くことの一つに、多くの面で、我々と日本人のすることが逆であるという事実がある。たとえば、日本人は鉋や鋸を、われわれのように向こうに押すのではなく、手前に引く。」1882(明治15)年6月下旬、東京で大工が使っている鋸を見て感じたことが日記に書かれている。「ビゲロウ博士は日本の鋸の歯が柄の近くでは小さく、先端に行くにつれて大きくなっている事実をあげた。それには私も関心を持った。」と『モースの見た日本』という著書にある。縦挽鋸(カガリ)の歯が手前から次第に大きくなっている理由すら知らぬ人がいるが、アメリカ人の観察力の細やかさには脱帽である。
 この理由について私の親方の説明によると、鋸鍛冶(目立職人も含む)と鋸の使い手(大工)との長い闘争から生まれたものであるという。昔、両者の口争いでは、「使い手」の連中が毎日鋸鍛冶に対して「もうすこし食い込むような鋸歯にできないのか」とか「歯の角度をもうすこし立ててみろ」とか言って、長い間の職人同士の議論があって、試行錯誤があって、次第に鋸が改良されていったのだ。また縦挽鋸(カガリ)の歯が手前より次第に歯が大きくなっているのも、こうした鋸の歴史が積み重なったものである、と親方は言った。
 江戸最後の木挽職人である林 以一 氏は一人挽である前挽大鋸の使い手の名人である。以前、林さんが「先入れ三寸」という言葉を言ったことがある。長年鋸を使っている職人であれば誰もが「その通りだ」と言ったことであろう。木を挽こうとして最初に鋸を入れるときが一番大切であるという意味の言葉だ。大工は新築する胴差や柱のホソ付のとき、最初の挽出しを上手にやらないと、胴差や柱ホソの挽面が曲ってしまい、正確な仕口を作り出すことができない。


左上:縦挽(ガガリ目) 右上:横挽(茨目)
左下:横挽(江戸目) 右下:横挽(鐘目)

 縦挽鋸(カガリ)の歯が手元側で小さく目立されているというのは、最初の挽出しのとき、その小さな鋸歯を使って、手早く挽出せば、ホソ墨の通り正確な鋸挽ができるのである。林 以一 氏の言う「先入れ三寸」という言葉はそのことなのである。ビゲロウ博士やエドワード・S・モース 氏が昔、日本の縦鋸挽を見て、手元側で歯が小さく、次第に大きくなっていると疑問を抱いていたようであるが、そこが外国の鋸に見られぬ、日本の鋸の良いところなのである。昔から鋸鍛冶や目立職人は、大工や木工職人にすこしの文句も言わせまいと、細心の注意を払い、楽で正確で早く鋸挽ができるように「切れ刃角」や「切削角」を研究し、改良して現在に至っていることも、現在の替刃鋸や電動鋸に生かされている。今も目立職人は大工などの注文に応じて「堅材」用、「軟材」用と聞きただし、「切れ刃角」や「切削角」を変え、目立を行ってくれる。堅材の黒檀や鉄刀木(たがやさん)のホソ付などは「ばら目」と呼ばれる唐木細工用の鋸を使用しないで「江戸目」などで挽くと鋸歯を痛めてしまうので注意が必要である。


金蔵山古墳出土の鋸
中央は複製品

 神戸市立博物館で、昔「石鋸」を見学したことがある。7センチ程の小さなものであった。刃先が鋸歯のようにギザギザになっていた。農作物の穂を摘み取るのに使ったか、動物の獲物の肉を切り裂くのに使ったか、石包丁より、石鋸の方が効率が良かったのであろう。岡山県倉敷市に「倉敷考古館」がある。江戸時代に建てられたという土蔵造の米倉を改装したものである。岡山県上道郡幡多村の「金蔵山古墳」(5世紀頃と思われる)の副室から「合子」と呼ばれる土器に入れられて出土した「鋸」「釿」「やり鉋」「鑿」「刀子」「鎌」などの鉄製品が展示されている。説明書によると、出土した鋸は長さが約14.4センチから13.7センチ、幅は約2.5センチで、厚み約0.2センチで鋸歯がこの頃すでに両刃となっている。小さな鋸の上と下に柄が付けられていたと思われる木の跡が少し残っている。復元模造した鋸も一緒に展示されている。この小さな鋸で一体何を挽いたのであろうか。動物の角や骨を挽いたのか。それとも、古代の人々が毎日使ったと思われる「櫛」を作るのに、この小さな鋸が使われたのか興味は尽きない。
 『古事記』の上巻に「櫛」の物語が登場する。その一節を書かせてもらうと「伊邪那美命」が火の神を産んで、女の大切なところが焼けて黄泉国に旅立ち、「伊邪那岐命」が会いに行くのであるが「故、左の御角髪に挿させる『湯津津間櫛(ゆづつまぐし)』の男柱一つ取りかきて、一つ火燭して、入り見ます時に、蛆たかれ‥」やがて泉津醜女(よもつしこめ)に追われる物語がある。また「速須佐之男命(すさのおのみこと)」が八俣大蛇を退治するとき、「かれ速須佐之男命、乃ち、其の童女(おとめ)を『湯津爪櫛(ゆづつまぐし)』に取りなして、御角髪(みみずら)に刺さして、其の足名椎、手名椎神に告り給はく‥」と書かれている。古代の神々も櫛を必要としたのであろう。しかし昔から「櫛を拾うな」という言い伝えがある。櫛を拾うと苦(九)死(四)となり、苦しみて死に至ると祖母に教えられている。


法隆寺献納の鋸
複製品・竹中大工道具館蔵

 話は変わって、明治9年、法隆寺より東京国立博物館に献納されたという大工鋸がある。現在、この鋸は国宝に指定されている。しかし中央部で折れた形跡がある。全長約74センチで、折れ口と思われる先端部に6個の小さな角穴があり、この角穴を使って、折れた鋸を継ごうとしたのでないか、という説があるが、それは無理だろう。昔、聖徳太子がこの鋸を使って、法隆寺の五重塔の真柱を挽いたという伝説がある。
 名古屋市に酒井田淳一(73歳)さんという目立職人の名人がいる。酒井田さんの説によると、この古い鋸は「台切鋸」ではなかったかと言う。台切鋸というのは挽手が両方にいて、力を合せて交互に押しては引くという形の鋸で、別名「夫婦鋸」とも呼ばれる。現在残っているような鋸がもう一挺あって、6個の穴に別の鋸を取付け、両方に挽手がいて、大きな丸太の材を挽いたのだと、酒井田さんは推理しているが、私もその説にはうなずける。神戸の竹中大工道具館の元館長であった嘉末国夫氏は、西暦577年に百済(くだら)から造寺工が賜られているが、この国宝の鋸は、その当時の工人たちがっ百済から携えてきた可能性が非常に高いと説明している。


石山寺縁起
日本の絵巻より

 昭和55年に広島県福山市の草戸平軒町遺跡から、全長約46センチの「木の葉型鋸」が出土して脚光を浴びた。13世紀頃のもので横挽鋸であり、中世に活躍した鋸である。現在復元され、広島県立博物館に展示されている。また三重県上野市の下郡遺跡から15世紀頃の「木の葉型鋸」が出土した。全長約48センチの横挽鋸で、出土した粘土層が完全な酸欠状態であったので、腐食せずに完全な形で残り、ナゲシやアサリもあり、貴重な資料となっている。現在、玉鋼で複製され、神戸の竹中大工道具館に展示されている。この「木の葉型鋸」は『春日権現験記絵』や『石山寺縁起絵巻』『松崎天神縁起』の写本ではあるが、中世の大工の仕事ぶりや大工道具を見ることができる。特に「木の葉型鋸」を使っている大工の表情がなかなか面白い。しかし、絵師が描いたものであるから無理なところもある。大きな釿を片手で振り上げ、木をはつろうとしている絵があるが、大工に言わせると、「それは無理である」と誰もが言っている。
 「鋸(のこぎり)」という名前がどうしてつけられたのかは様々な説がある。古い昔には「ノホズリ」と呼んでいたようで、平安時代の初期、『皇大神宮儀式帳』の中に「乃保岐利二柄(ノホギリフタツカ)」と記されている。江戸中期の学者であった新井白石が書き表した『東雅』という我が国の物名を解釈した辞典に「ノ」は刀なり。「ホ」は刃という語の転なり。「キリ」は切るなりと読み、「刀に似て歯のある物也」と説明している。昔は「ノホギリ」とか「ノコズリ」と呼んでいたようである。