大工道具に生きる

0875(25)4468
  大工棟梁 香川量平
(のこぎり)の話(2)

和漢三才図会 上巻第二十四
百工具より

 鋸(のこぎり)と誰が名付けたのだろうかと昔、古老の大工に聞いたことがある。この物知り大工は「昔、大きな縦挽鋸(大鋸)や大きな横挽鋸(台切鋸)は中国からノコノコと韓国を渡って日本にやって来たのでノコと誰言うとなく呼ぶようになったのだ」と言ったが、その話は信用できない。承平年間(911-938)の平安中期の歌人であり、学者であった源順(みなもとのしたごう)という人が書き表した漢和辞書『倭名類聚鈔』の工匠具、第百九十七の「鋸(のほきり)」項に「四聲字苑ニ云鋸八音拠、和名能保岐利、似レテ刀ニ有レル歯者也」と書いている。そののち徳川時代の正徳二年(1712)大阪の医者であった寺島良安が書き表した『和漢三才図会』の上巻の第二十四の百工具の項に「舟鋸」「引廻し」「根隅鈎、祢須美加賀利(ねずみがかり)」「大鋸」「前挽」「台切」と絵図入りで説明している。また宝暦十一年(1761)金沢兼光が書き表した『和漢船用集』にも、『和漢三才図会』と同じく「刀に似て歯の有るもの也」と鋸の説明があり「ノコギリ」と読ませている。
 私が木曽の山中で枝下ろしをしている職人から聞き取った話では、木に登って枝下ろしをする道具であるため、古い昔から「ノボセキリ」と呼ばれていたのが、次第に「ノコギリ」と呼ぶようになったのであろうという話を聞いた。この「ノボセキリ」が「ノコギリ」の語源であるように私は思っている。厚木市の前場幸治氏も私の話に同感である。


描かれた鋸

 平成六年、神戸の竹中大工道具館、開館十周年の記念企画展で『東方道具見聞録』が紹介された。その解説書に中国の鋸の話が書かれている。「中国で、最もよく使われている鋸は、大小さまざまな枠框鋸である。張縄をねじって締めつけることで、鋸身がピンと張る。大きいものは二人で挽いて使用する。小さい鋸は一人使いで、木材の切断や細工に使用する。日本のように縦挽き横挽きの歯型の区別はほとんどなく、どの方向に切るのも同じ框鋸で作業する。その他に溝の切り込みを入れる溝切鋸や、細かい曲線を挽くための弓鋸などがある。弓鋸は弓形の竹の柄に取付けた糸鋸で、竹の弾力で歯を緊張させている。」
 中国の鋸は石器時代(数千年)前の石製・貝殻製・骨製の鋸から、銅・青銅の鋸を経て、戦国時代(紀元前五〜三世紀)には鉄製のものが現れた。初期の鉄製鋸は、板状や刀型などである。框鋸の出現はかなり遅れ、宋代(十二世紀)の「清明上河図」に初めて框鋸が描かれている。
 『東方道具見聞録』の中に「かまきりと鋸」の話が逸話として書かれている。その話を書かせてもらうと、鋸の起源について、民間には次のような話が伝わっている。ある年、皇帝が宮殿建造に魯班を召し出し、三日間で千本の木を伐るように命じた。その当時、鋸という道具はなく、斧を使って木を倒していた。魯班は弟子達を集め、必死になって働いたが倒せたのは二日で五百本であった。皇帝の命令に背けば生命はない。途方に暮れた魯班は木下で大の字に寝ころんでしまった。その時突然、魯班の腹の上に一匹の大きなカマキリが落ちてきた。魯班はカマキリの前足の鋭利なギザギザに気付くと、その足をもぎ取り、自分の手の甲を引いてみた。引けば引くほど深く食い込み、鮮血がほとばしった。コレだと訝る弟子達を尻目に鍛冶屋へと走った。カマキリの前足を手本に、徹夜で鋭利な刃を付けた薄い鉄の板を二十数枚作った。
 魯班は三日目の早朝から、弟子達と共にその道具を使って残りの五百本の木を切り倒した。カマキリの前足の鎌にヒントを得て、魯班は大工道具の中に鋸という新しい道具を付け加えた。これが『東方道具見聞録』に書かれている中国の鋸の逸話である。また見聞録の中の「中国の大工の修業と道具」の話も面白い。大工には親代々の「祖伝」の大工と、親方に弟子入りする「師伝」の大工がある。長江下流地方の大工によると、十代後半に弟子入りし、修業期間は三年間。弟子入りのときには「拝師酒」、独立するときには「満師酒」という宴会を行ったという。昔の修業期間は無給で、親方に公私共に仕えなければならなかった。現在では一年から二年の修業のこともある。


数々の前挽大鋸
竹中大工道具館蔵

 修業はまず大型枠鋸での製材から始め、斧、鉋、鑿、墨掛けの順で学ぶ。墨掛けは一番難しい仕事で、一番最後に学ぶという。一人前の大工になると、百点前後の道具を所有するが、日々の仕事には必要な道具だけを道具箱や袋に入れて現場に持参する。
 「カマキリ鋸」の伝説話に登場する「魯班」は今も中国で大工の神として仰がれ、大工は誰もが魯班の子であると信じている。また魯班は「ものさし」も作り出している。北斗七星の文曲星に教えられた「ものさし」は、良き寸四つ、悪き寸四つからなるもので「魯班尺」とも「北斗尺」とも呼ばれている。大工の神と仰がれている魯班は実のところ大工などではなく、古代中国の科学者であり、数学者であったといわれる。十五歳で子夏の門に学び、のち建築学の基準である「規矩準縄」を考え出した人物であると伝えられている。
 私が中国の「指金」を求めて雲南省の昆明を旅していたとき、農家の広場で框鋸を使って木を挽いている現場に出合ったので、農家の主人に、通訳を通じて挽かせてもらいたいと言ったら、挽いてもいいと言うので、挽いていると主人が「この男、なかなか上手だ、手つきがいい」と言う。「この男、日本の大工だ、大工の棟梁だ」と通訳が主人に言ったが、棟梁という言葉の意味が通じなかったようだ。框鋸を使ってみると、日本の鋸の優秀さをしみじみと感じたものだった。


筆者の持つ前挽大鋸
玉鋼製

 この一人挽の框鋸を大型化したものが二人挽の「大鋸」と呼ばれる縦挽鋸である。大鋸が大陸から我が国に伝えられたのは室町中期(1400年)前後とされている。この二人挽の大鋸を「框付縦挽製材鋸」と呼んでいる。この大鋸が現れるまで、我が国には大型の縦挽鋸はなく、大きな丸太材を楔や大きな割鉈で打ち割って、建築用材を得ていた。その方式を「打ち割り法」と呼んでいる。その打ち割り方式では材の無駄が多く、打ち割った木面を釿やヤリガンナで仕上げるのに大工は大変に苦労していた。しかし、打ち割る良材も乏しくなってきた矢先、大鋸が現れたのである。それまで、打ち割ることができなかった松材や欅材の木取が可能となり、堂宮建築の木工事が一躍向上したのである。
 大鋸がどのような経路で我が国に伝えられたのかは今もって不明である。そのような訳で「天狗の大鋸」と呼ばれるのが富山県の五箇村にあり、昔天狗が空から取り落したという伝説がある。この大鋸は全国でも数少なく、現在、貴重な存在である。この大鋸の伝来について、知人の元船大工から聞き取った話がある。この船大工は、昔「倭寇」が朝鮮半島か中国大陸から分捕ってきたものであろうという。倭寇が出現したのは十三世紀から十六世紀の間で、「大鋸」や「台鉋」が文献に表れるのが十四世紀頃である。倭寇の船団には営繕として船大工が必ず同乗している。倭寇が着岸した港の造船所でで船大工が分捕って持ち帰ったものが広まったと言うのである。田中健夫氏の著書の『倭寇』によると、初め二十隻ほどの船団が急速に兵数三千人とか船数四百隻余と大規模な倭寇に膨れ上っているとある。私の素人考えだが、大鋸や台鉋の出現によって木造船の木取りは敏速となり、台鉋によって木造船は、手触りが良くて美しく仕上げられ、倭寇の木造船の生産が急上昇したと考えるのである。
 この二人挽の大鋸から挽出される鋸屑を「おがくず」と昔の人が呼んだ言葉が、今も庶民の間で使われている。しかし大鋸はあまり長く使われなかったようである。大鋸に代わって、1490年頃、一人挽の縦挽鋸である「前挽大鋸」が現れた。しかしこの鋸を誰が作り出したのかは今もって不明である。鋸身が広く効率のよい縦挽鋸であったが、楽で使いやすいよう所々に改良が加えられ、今も東京の林以一氏らが現役で良材を挽いている。動力の製材機で良材を挽くと、摩擦によって熱が加わり、良材が変色するからである。江戸中期、寺島良安の著である『和漢三才図会』に前挽大鋸が書かれている。「長二尺、濶サ一尺一寸。齒皆向レ前其柄屈シテ竪ニ引キ二大木ヲ一爲レ板ト」とある。「鋸の長さ二尺、広さ一尺一寸、歯は皆前に向き、柄は曲っていて縦に大木を挽き、板となす」と解説しているが、鋸歯が皆前に向いているという解説はおかしい。


大鋸
ミュージアム 氏家蔵

 昭和三十五年頃、四国の製材所で製材機の台車に乗らない大きなラワン材を、前挽大鋸で二つ割に挽いていた木挽職人を見た。彼等を「木挽」と呼び、きつい重労働に耐え抜くため、昔から「木挽の一升飯」と呼ぶ諺がある。この木挽が挽いていた前挽大鋸は首が長く、広い鋸身の中央部が縦に鍛接されていた。この木挽は、初老の男で鋸は玉鋼であると自慢していた。
 私が大工の見習であったころ、親方の作業場の広場で「木挽」が大きな松丸太を前挽大鋸を使って二階差や胴差、入口差などを角材に挽出していた。「シャリ、シャリ」と木を挽く鋸の音の良さが、今も脳裏に深く焼付いて忘れることができない。その木挽は大きな男で、太い腕には黒い毛が多く生えていて、見るからに力が強そうで、重労働に耐え抜く忍耐力を持ち合せているように思えた。