大工道具に生きる

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  大工棟梁 香川量平
(のこぎり)の話(4)

窓鋸(三木金物資料館 蔵)

 我が国の鋸鍛冶が鍛えたものには昔から、ほとんど作者の「銘」と呼ぶ名前が刻まれている。銘には「刻印銘」と「鏨銘」の二通りがある。刻印銘は関西での作者に多く、鏨銘は京都の伏見や関東に多い。また最近の鋸の銘には薬品によって腐食させたものや、印刷されたものがある。鋸枚の薄い「胴付鋸」など、銘の打てないものには背金と呼ばれる補強金物に銘が刻まれているものがある。鋸には、表と裏がある。銘が刻まれている側が表であるが、裏側に打たれている銘もある。この銘は「鋼」の名称や製造番号で、それを「裏銘」と呼んでいる。  

 鋸(のこぎり)を表と呼ぶ決め手がもう一つある。鋸に刻まれている銘を上にして置けば、両歯鋸であれば必ず右側が横挽の「江戸目」となる。古い片歯鋸も、右側に横挽か縦挽の歯となるのが鋸の表となる決め手である。

 しかし多くの鋸の中には「無銘」と呼ばれる、作者の銘が打たれていないものがある。その場合、どちらが鋸の表であるのかと言えば、両歯鋸の場合、横挽の江戸目が右側となるのが鋸の表である。また昔の片歯鋸で無銘の場合も右側に横挽歯か縦挽歯となるのが鋸の表となる決め手である。その理由を昔、古老の大工に聞いたことがある。大工は「鋸相から言えば右側に鋸歯がくるのが『吉』である」と言ったが、昔の鋸は横挽も縦挽も片歯鋸であったからであろう。また、この古老の大工は「家相でも家の中心より右側に玄関を作るのが『吉』であり、中心より左側に玄関を作るのを『左構え』と言って村の人々は昔から家人の出世の妨げになるのだと言って凶であると言い、決して左構えには作らないのだ」と言った。  

 鋸の長さを呼ぶ寸法には「刃渡り寸法」と「呼び寸法」の二通りがある。刃渡り寸法というのは「歯道」という鋸歯の目立てする部分で、九寸鋸(27p)といっても一寸(3.3p)程少なく八寸(24p)しかないのが「刃渡り寸法」と呼ばれる。また鋸の先端の「鬼歯」から「コミ(柄に差し込む軟鉄)」と鋸歯が溶接された部分までの長さを「呼び寸法」という。故吉川金治氏は、昔の鋸は首の部分も刃渡り寸法の内であり、古い遺品の鋸ほど首が短く鍛えられていると説明している。最近の替刃鋸などには溶接された部分がないので、正確な呼び寸法がわからない。  

 昔の大工が、伏見(京都)や関東方面で鍛えられた鋸の鏨銘とも切銘と呼ばれる鋸を大変に好んだというのは、朝夕に自分の鋸を入念に手入れして、美しい鏨銘を他の職人に自慢の一つとしていたからと言われる。また、昔の鋸に深く刻印した銘に、真鍮を象嵌(ぞうがん)した「日向孫右衛門」という鋸があったと故古川金治氏は述べている。その象嵌した美しい鋸を大工は自慢したことであろう。

 神戸の竹中大工道具館に、十五代中屋久作の片歯鋸と胴付鋸が展示されている。この鋸鍛冶は明治の初め、玉鋼で鋸を鍛えていた江戸の名工である。美しく笹の葉を散らした見事な鏨銘を「笹葉銘」と呼び、私の脳裏に深く焼き付いている。今も江戸の名工が鍛えた鋸を「笹葉久作」と呼び、大工の憧れの的となっている。胴付鋸も見事なもので、玉鋼が薄紙のような鋸歯に仕上げられている。昔、親方から、名工が鍛えた胴付鋸の歯は、背金を外すと、スルスルとガラスコップに薄紙を丸めて入れるようになる鋸歯であれば、天下一品の銅付鋸であると聞いたことがある。


大洲城の棟札

 越後三條に初代、故大場正一郎氏という名工の鋸鍛冶がいた。故村松貞次郎氏は東の大場、西(兵庫県三木市)の宮野鉄之助と名工の二人を関東、関西に二分して称えている。名工の故大場氏が鍛えた鋸の銘も「笹葉銘」で見事なものであり、小さく「稲荷大明神」の刻印がある。故大場氏も稲荷神を鍛冶の守護神とし、鍛えた鋸の一枚、一枚に稲荷神を封じ込めているのであろう。古い昔から鍛冶屋が何故稲作の神である稲荷神を信仰するのであろうか。鍛冶屋は鉄で農具を作り、農民の力によって、我が国が見事に開拓されたのである。古い昔から農耕と鍛冶屋は切っても切れない間柄であったのである。

 古事記には「稲魂」の女神である「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」、日本書紀には「倉稲魂命(うかのみたまのみこと)」と記されている。この女神は稲荷神で、農民が豊作を祈る神である。また大工は、この女神を「屋船豊宇気姫命(やぶねとようけひめのみこと)」と呼び、大工の棟梁が上棟式の折、棟札に書き付ける女神である。棟札には、もう一柱の男神が書き付けられる。「屋船久久遅命(やぶねくくちのみこと)」である。この男神は木の神で、古事記には「久久能智神」、日本書紀には「句句迺馳(くくのち)」と記し、この二柱の神は、家を永久に守護する神として、昔から大工の棟梁が「棟札」に書き付けるのである。「屋船」とは何か。屋とは舎屋(しゃや)といって、家という意味であり、船とは大根(おほね)といって、樹木のしっかりとした根を表す古語で、柱によって舎家を支え、しっかりとした家が建っている意味である。豊宇気姫命は、家の屋根の葺草を司る神とされ、木神と草神の二柱の神によって家が守られている、と民俗学者の折口信夫氏は述べている。

 四国松山の鍛冶の名工、白鷹幸伯氏も稲荷神を鍛冶の守護神として祀り、全国の宮大工から、その腕が尊敬されている。また故千代鶴貞秀氏から昔聞いた話であるが、初代の故千代鶴是秀氏も稲荷神を鍛冶の守護神とし、見事な作品を数多く遺している。大工は誰もが、これらの作品のどれかを一度は使ってみたいと願望している。  兵庫県三木市の鍛治師の多くは「天目一箇神(あまのまひとつのかみ)」とも「天津麻羅(あまつまら)」とも呼ばれる鍛冶の祖神を守護神として祀っている。三木の鉋鍛冶の名工、山口房一氏は「天一目(てんいちもく)」という鉋は、「天目一箇神」にあやかって名付けたと聞いている。また、鋸鍛冶の近藤義明氏は岐阜県の南宮大社の主祭神である「金山彦神」を守護神としている。鍛治師たちは、火の神である「火之迦具土神(ほのかぐづちのかみ)」と毎日闘いながらも悠々と仕事を続ける。また鍛冶たちが口ずさむ歌が面白い。「嫁に来るなら鍛冶屋においで、足で飯(めし)炊き手で金(かね)のばす」何と悠長な歌だろう。


宇迦之御魂神(宮城護国神社)

 四国の土佐(高知県)には昔から「土佐鋸」と呼ばれる丈夫な鋸が鍛えられている。大工用の両歯鋸は少ないが、山鋸が多く「土佐型手曲鋸」で、片歯鋸の黒打鋸が有名である。しかし最近、木の伐採にチェーンソーが普及し、土佐手曲鋸の姿は消え去った。しかしこの有名な黒打鋸は、鋸鍛冶が鍛えた鋸跡が鮮明に残り、打ちっぱなしの状態で、しかも鎚のみで見事に「定平」を作り出している。腰も強く、切れ味も抜群である。「定平」という鋸の名称について、故吉川金治氏は「鋸身に研削によって合理的な厚薄をつけること。腰をつけるともいう。」と説明している。黒打鋸が、鎚のみで鋸刃に厚薄をつけるのは高度な鍛冶の技術が必要であったといわれる。土佐(高知県)は全土の八割が山林であるため、林業が盛んで、昔から良質材の生産に努力している。「通直、完満、無節」を目標に苗木づくりから伐採までを計画的に進めている。

 高知県土佐山田町に「原福鋸工業所」がある。原豊茂氏の「土佐鋸の起源」についての説明によると、「土佐鋸は天保年間、片地村山田島鍛冶業の尾立団次なるものが、安芸郡田野村において、中島長左衛門より前挽大鋸の製法を習得して、前挽大鋸の製造を始めたのが片地における製鋸業の始まりと云われる。それ以来、150年余り黙々と歩み続け、父より子に、師匠より弟子にと技法が伝えられ、片地村が前挽大鋸の主生産地となり、一路躍進を続け、鋸の銘も片地村の『片』を入れて『片某々』の刻印を打ち込み、土佐鋸の『片』という銘はこのような訳で生まれた」と聞いた。原福鋸の三代目である長男の耕一氏は、山鋸を鍛えているが「土佐鋸の強さはご覧の通りである」と山鋸を真二つに折って見せ、粘りの強さを私に見せた。この鋸を「長者鋸」と呼び、山で働く人々は誰もが腰に吊している。また土佐では、鋸の呼び寸法と刃渡り寸法が同じである。

 土佐山田町に「尾立寿雄」という土佐鋸の名人がいると聞いて伺ったが、故人となられていた。奥さんの久寿さんから遺品である「窓鋸」を二挺いただいた。窓鋸は「改良歯」とも呼ばれ、見事な切れ味である。窓鋸は五枚ごとの歯に深く大きな切り込みがあり、その一枚の歯が縦挽歯で、後の四枚は笹歯と呼ばれる横挽歯である。節などに行き当たると、縦挽歯が威力を発揮し、窓のような大きな切り込みが「オガクズ」を見事に押し出し、楽で早く鋸挽ができる構造となっている。

 鋸の歯型には三種類ある。「ガガリ目」「江戸目」「バラ目」である。ガガリ目というのは縦挽鋸の歯型の名称で、ガリガリと音を立てながら挽く鋸であるため名付けられたという。根隅鈎(ねずみががり)という小型の縦挽鋸がある。ねずみの歯のように鋭いのでこの名がある。横挽鋸の「江戸目」は小刀の原理を応用したもので、昔、江戸の目立て職人が作り出したので、その名がある。「バラ目」と呼ばれる歯型は、出土した古代鋸にも見られる。中国や西洋の押鋸に見られる歯型で、横挽も斜挽も可能で、今も唐木細工の職人はこの「バラ目」を使用する。その他、職種によって昔から変わった歯型が多くあるが、現在ではあまり使用されていない。