大工道具に生きる

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  大工棟梁 香川量平
(のこぎり)の話(6)

 奈良県のヒビキ遺跡で昔、大豪族であった葛城氏(かつらぎし)の王宮跡が発見されたと、新聞紙上で見たが、この大きな建物は第二十一代雄略天皇の怒りに触れて焼き打ちされて葛城氏は衰亡したとある。この焼け落ちた建物は一体誰の手によって建てられたのであろうか。雄略天皇といえば古事記に登場し、大変に手荒な行動をとった天皇と伝えられている。天皇のお抱え工匠であった猪名部の眞根が、あるとき、斧の刃先を石で痛めたのが理由で、天皇に殺されかかった話は有名なのだが、焼け落ちた葛城氏の王宮を雄略天皇のお抱え工匠であった眞根が建てるはずはあり得ないと私は思う。すると眞根以外の建築集団がいて、葛城氏の王宮を建てたのでないかと考えられる。これらの建築集団は四世紀の末、すでに新羅の国から我が国に渡来し、帰化して、大きな建物を建てていたのである。

 新羅の国から渡来していた工匠たちの大工道具はどんなものであったのだろうか。「江戸萬物事典」によると大工道具を古い言葉で次のように書いている。「規(き)コンパス」「矩(く)さしがね」「準(じゅん)みずばかり」「縄(じょう)すみつぼ」「 (しん)すみさし」「釿(きん)ちょうな」「 (し)やりがんな」「鋸(きょ)のこぎり」「鑿(さく)のみ」「錐(すい)きり」「鑽(さん)三つ目きり」「槌(つい)つち」「鑢(りょ)やすり」「鏨(せん)たがね」「鎚(つい)鉄づち」「削刀(さくとう)小刀」「鐇(ばん)巾広のおの」「斧(おの)こぎわり」「釘(てい)くぎ」などであるが、新羅の工匠たちはこのような呼び名の道具を持っていたのであろうか。

 この工匠たちが持っていた横挽鋸はどのような鋸であったのだろうか。幻の鋸と呼ばれ、今も謎のままである。この年代に作られた鉄製の鋸は各地の古墳から出土しているが、大変に小さく建築には使いものにならない。権現山古墳から出土した両歯鋸は24.1p(約八寸)であるが、これでも建築に使用するのは無理であろう。しかし新羅から渡来した工匠たちはその当時、大きな建物を建てていたのであるから大きな横挽鋸を使っていたはずである。

 飛鳥時代、仏教伝来と共に聖徳太子は百済(くだら)の国より、多くの建築技術者を呼び寄せた。百済から渡来した工匠たちは、新羅の工匠たちが建てていた掘立式の建築ではなく、礎石の上に柱を建て、枡組で軒を支える見事な仏寺建築であった。太子は難波(大阪)の玉造に四天王寺を建立した。「紀」には四天王寺は難波の荒陵村(あらはかむら)に移建したとあるが、太子は院内に施薬院(せやくいん)や悲田院(ひでんいん)、療病院(りょうびょういん)の三院を置き、病人や親のない子供を助けたという伝説がある。また太子は法隆寺を建立した。その当時に使用したという鋸が現存する。「法隆寺伝来鋸」である。現在、東京国立博物館の法隆寺宝物館に展示されている。大建築に相応しい大型鋸であるのだが、途中で鋸が折れていて、つなごうとしたような形跡があるので、今もいろいろと話題を呼んでいる未解決の「飛鳥の鋸」である。  仏教伝来と共に聖徳太子が百済の国から呼び寄せたという大勢の建築関連の技術者の中の工匠たちや、それより以前、我が国に住みついていた新羅の国の工匠たちが使っていたはずの横挽鋸は文献もなく出土例もなく、彼らは一体どこへ横挽鋸を持って行ってしまったのであろうか。鋸は薄い鋼板であるため、使われなくなった鋸は瞬く間に土と化してしまったのであろうか。しかし私はいつかこれらの鋸が出土するものと信じている。新羅や百済の工匠たちが使っていたはずの横挽鋸を私は「幻の横挽鋸」と呼んでいる。建築には絶対横挽鋸は不可欠であり、もし横挽鋸なしで、あの大建築を全国どこの大工に依頼しても、お断りされることであろう。しかし同年代項と思われる鋸が韓国の古墳から出土しているというから、彼らもそのような横挽鋸を使って、あの大建築を完成させたのであろう。


 奈良の正倉院に「白牙把水角鞘小三合刀子」という三本組の刀子の中に「刀子鋸」と呼ばれる小さな鋸がある。その当時の貴人たちが香道をたしなんでいたので、その鋸を使って香木を挽いたのであろう。香道で使われる道具を香割道具と呼び、香鋸、香鑿、香槌、香鉈、香割台などである。香木を小さく挽き、米粒ぐらいに割り、銀葉と呼ぶ雲母板に乗せて加熱させ、香を「聞く」のである。余談になるが、香木には「六国列香」といって、伽羅(きゃら)、羅国(らこく)、眞那賀(まなか)、眞南蛮(まなばん)、寸門多羅(すもたら)、佐曽羅(さそら)の六種類に分けられている。伽羅はインド、羅国はタイ、眞那賀はマレーのマラッカ、眞南蛮はインドのマラバル、寸門多羅はスマトラ、佐曽羅はインドのサッソールなどから産出されるのであるが、土中か水中で百年以上埋もれていたものである。しかし今も採取する場所がどこであるのか秘密であるため誰にも判らない。

 平成九年、正倉院展で「黄熟香(おおじゅくこう)」とも「蘭奢待(らんじゃたい)」とも呼ばれる大きな香木が出展されていた。蘭奢とは人をほめる言葉で、聖武天皇がこの香木の香気が優れているので名付けたという言い伝えがある。解説によると熱帯のアジア産で昔、中国を経て日本に輸入され、東大寺に伝わったという。長さが156pで重さが11.6sある大きなものであるが、切り取ったという三者の付箋がある。「足利義政拝賜之処」「織田信長拝賜之処」「明治十年依勅切之」とあるが、明治十年のは明治天皇が切り取ったところである。正倉院は開封役の勅使でなければ開封できないのであるが、豊臣秀吉と徳川家康の二人は蘭奢待を、うまうまと切り取っている。家康が切り取ったという蘭奢待の一片が、神奈川県川崎市の中川家に今も伝世しているという。

 奈良市五條町にある国宝の唐招提寺金堂が現在、解体修理中であるが、この寺院は西暦七五九年の奈良時代、唐僧の「鑑真和上」によって創建された律宗の総本山である。第四十五代聖武天皇の招きに応え、鑑真和上は十二年間、六度に及ぶ多難な渡航を乗り越え、奈良の都に辿り着いたとき、すでに両目を失明していたといわれる。一昨年、福井県の宮大工直井光男棟梁の案内で、解体修理中の唐招提寺の建築部材を見学させてもらった。千二百年の時を経た建物には、柱の内倒れや構造変化がかなり見られていたという。しかし今回の平成大修理により、健全な状態を取り戻し、奈良時代の建築技法が後世に伝えられることは誠に喜ばしいことである。

 今回見学させてもらった建築部材には「幻の横挽鋸」といわれる挽跡が各所に見られていたが、特に驚いたのは内陣の折上組入天井材に切り込みを入れた鋸の挽跡であった。伊東市からこの見学に同行していた鋸目立の名人長津勝一氏が、その挽地を見て大変に驚き、その当時使っていた「幻の横挽鋸」の優秀さを誉めた。現在の大工が使っている両歯の九寸鋸か、尺鋸の江戸目で挽いたような挽跡に、見学者一同も目を瞠った。長津氏の説明によると、当時の鋸歯はイバラ目であったはずである。この挽地は、かなりいい鑢を使って目立し、鋸板の歪みやアセリも完璧に行なわれていたのだろうと言い、鋸挽する工人たちも、その当時としてかなり高い鋸挽の技術力を持ち合わせていたのだろうという説明を聞いた。

 天井板も見学させてもらったが、一寸程の桧の割り板で、下端の見付部分は槍鉋で仕上げられているが、天井板の裏側は割り肌そのままで凹凸がひどく、釘打ちも大変苦労したことであろう。この天井板に使われていた割り肌を見ると、その当時、縦挽鋸がなかったことを証明するようなものであると思えたのである。また、約千二百年前の建築部材の一つ一つに当時の棟梁や工人たちの汗とあぶらの苦労が染み込んでいるように思えたのであった。


 唐招提寺が建立された頃、我が国には直材で木目の通った桧や杉が豊富に自生していたのであるが、次第次第に伐採されて、十四世紀頃になると多くあった良材が不足し始めたのである。しかし幸いなことに、その頃大陸から二人挽の「大鋸(おが)」と呼ばれる大型の縦挽枠鋸が伝えられたのである。それまで割り材を加工して一本の角材を得るのに大変苦労していたのであるが、この大鋸により、思いのままの木取りが可能となり、木材加工の手間が大幅に減少し、堂宮建築の工事が短縮されたのである。そのような訳で、この縦挽枠鋸は、我が国の木造建築生産に大きく貢献した道具であると人々に誉め称えられたのである。

 しかしこの大鋸はあまり長く使われなかった。十六世紀の末期頃、一人挽の「前挽大鋸」が現われて、二人挽の大鋸は次第に衰退していったのである。この前挽大鋸が出現した時代は天下統一を目指して武将が各地に城を築き、土木工事などの普請が急を要したので木材の需要が増大し、各地に前挽鋸が急速に普及していった。木挽職人も大忙しであったことだろう。またこの縦挽鋸によって薄い天井板や床板など、建具材に使用される小割材の木取りも可能となり、我が国の建築構造に変化をもたらしたのが、この前挽大鋸であると言われている。

 我が国の鋸鍛冶も長い年月をかけ試行錯誤を繰り返し、苦労しながら世界に例を見ない見事な手作鋸を鍛え上げた功績は偉大なものである。しかし最近、機械づくりの替刃式の鋸の進出で彼らは被害を被っている。いい得意先であったプロの大工も最近は替刃式の鋸を使う時代となってしまった。古い昔から伝えられ、築き上げられた手作鋸の技術が次第に消滅していくのは建築大工も同じで、胸が痛む毎日である。