大工道具に生きる

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  大工棟梁 香川量平
(のみ)の話(1)



 我が国の古い神社や仏閣には彫りといい形といい見事にバランスの取れた欅の彫刻が今も数多く残されている。その中でも有名なのが左甚五郎の作と伝えられる彫刻で、全国各地に百ヶ所あまりあると伝えられているが、中でも日光東照宮の回廊の蟇股に彫られている「眠り猫」は甚五郎の代表作と伝えられている。この彫刻、見る位置によって眠っているようでもあり、目を少し開いているようでもあり、今にも獲物に飛びかかろうとしているようにも見え、今も観光客の目を楽しませてくれている。また甚五郎の動物彫刻はすべてが生きているのだと昔の人々は信じ、水を飲みに出る龍とか、畑を荒す鴨とか、数多くの伝説話がある。中でも目を楽しませてくれるのが、石清水八幡宮の西門の欄間に彫られている「目貫の猿」である。昔、夜になると欄間から抜け出して野荒しをするので、時の住職が右目に太い五寸の竹釘を打ち込んだのが今も残っている。甚五郎が猿の彫刻を選んだというのは「火が去る(サル)」に通じ、昔から木造建築を火災から守るという火伏の役目を果たしているのだと伝えられている。

 讃岐(香川県)の高松市に左甚五郎の七代目という左光挙氏がいる。ここに甚五郎が昔使っていたという鑿が多く残されていたが、第二次世界大戦によって、アメリカ空軍のB29の爆撃で、旧高松市と共にこれらの鑿も灰塵と化してしまった。惜しまれるのが、親方が遊左與半治から頂いたという「山城国西陣住、理忠明寿(やましろのくににしじんのじゅう、うめただみょうじゅ)」が鍛えた鑿である。甚五郎の墓は高松市三番町の地蔵寺にあり、今も市民や建築関係の人々によって守られ、静かに眠っている。

 新潟県西蒲生郡分水町に沖野工務店がある。ここに宮彫師・沖野兼一氏がいる。欅の獅子鼻を完全に仕上るには一ヶ月を要するという。その計算でいくと、年に十二個しか作れない。讃岐甚五郎は全国の有名彫刻を一人で作り上げたと信じている人が讃岐には多い。彼は四十一歳の若さでこの世を去っている。伊藤ていじ氏が述べているように、左甚五郎という人物は、「紀州系」「和泉系」「讃岐系」と各地に名人の宮彫師が数多くいて名彫刻を彫り上げたのであろう。


 讃岐の田舎では今も住宅の座敷に使用する彫刻の欄間を互いに自慢する風潮がある。図柄には「松竹梅」「近江八景」「松に鷹」「錦帯橋」「四君子」など数多くあるが、四君子欄間は「梅、菊、蘭、竹」の彫刻であるが、気品に満ち、風格が君子に似ているところからこの名がある。欄間彫刻は彫りも自慢の一つだが欄間の厚みも自慢の対象となっている。村一番という欄間は厚みが三寸で近江八景が彫られているが、残念ながら紅桧の台湾製である。戦後、福井県の欄間職人が台湾で指導したという日東彫刻公司が宜蘭県羅東(ルオトウン)にある。ここで日本向けの欄間を彫っている。彫る材はすべてが生木で鑿は「銀杏鑿」という風変わりなもので、木槌は使わず二尺程の樫の一寸五分角である。欄間の内法寸法は堂宮建築を除き、一般住宅では一尺二寸(36.3p)とするが、天井の高い場合には一尺四寸(42.3p)とする。その内法寸法にしておけば既製品の欄間がうまく収まるからだ。

 鑿には木材を穿つものと石材を穿つものの二通りがある。古い昔から穴をあけるということを穿つと呼んでいる。鑿の歴史は大変に古く、古代エジプト時代に遡る。厚木市の前場幸治氏が撮影したエジプトのレクミラ墓の壁画の中に、鑿を持ち、ボトル型の木槌を使って穴を穿っている様子が描かれている。約三千五百年も昔のことである。またクフ王のピラミッド南側の地下坑から発掘された木造船はレバノン杉で作られていたのを組み立てて展示している。ほぞ付は銅製鋸が使われ、ほぞ穴は銅製鑿で穿ったのであろうという説明を受けた。またエジプト考古学博物館には約三千三百年前のツタンカーメン王の遺品である黄金張りの厨子や玉座の椅子などが展示されている。しかしこれらの材質は黒檀で作られているので、その堅い材に銅製の鑿でほぞ穴を穿つのは無理と思う。錐を使ったか、焼通しで荒穴を穿って銅製鑿で仕上げたのであろう。

 我が国の大工道具のルーツを手繰れば中国で、韓国を経て我が国に伝えられたものと考えられている。弥生時代の後期の集落跡や水田跡が昭和18年に静岡県の登呂遺跡で発見され、出土した板材に、多くの釿の刃跡や鑿の刃跡があり、板材に穴を穿った跡もあり、その当時鉄製道具がすでに使われていたと考えられている。岡山市の金蔵山古墳は五世紀頃の築造とされているが、その古墳の副室から「合子(ごおす)」と呼ばれる土器に入った鉄製の大工道具が発掘された。それは現在、倉敷考古館の二階に展示されている。その中に多くの鑿がある。「鉄鑿」と表示し、復元した鑿と共に昔の姿をとどめている。錆化して正確な寸法や姿を読み取るのは難しいが、刃巾の狭い鑿は二分鑿か三分鑿であろうか、やや鑿の形に似ているのは五分鑿か六分鑿であろう。柄を装着する部分はすべてが茎(なかご)とも(こみ)とも呼ばれる形となっている。説明によると、これら出土した鑿は叩き鑿などではなく、柄を装着して突鑿として使ったのではないかと言い、片刃で「裏スキ」や鍛接した形跡のある鑿が見受けられると言う。

 東京国立博物館に山梨県豊富村の大塚古墳から出土した鑿が一本展示されている。五世紀頃のもので刃巾は目測で約一寸三分(4p)程で木製の柄は腐蝕しているが茎はあり、片刃のようで、現在の鑿の形に大変よく似ているので、韓国で作られたものでないのかと想像した。また、各地の古墳から出土する古代鑿は柄を装着する部分が茎式と袋式の二通りとなっている。茎式は現在の鑿の込みのある形式であるが、袋式というのは鍛冶屋が鑿を鍛造するとき、柄の装着部を丸く作り、柄がうまく収まるように鍛えたもので「袋鑿」と呼んでいる。


 古代鑿は片刃と両刃(諸刃)とになっている。続、日本の絵巻の写本に「春日権現験記絵」や「石山寺縁起」があるが、その中に大工が木材に跨がり、鑿を打ち込んで割ろうとしている絵図がある。これらの鑿は両刃で「材割鑿」と呼んでいる。その項には縦挽鋸がなく、片刃鑿は墨線の通りに打ち込めば正確な穴を穿つことができるが、両刃鑿ではできない。しかし十五世紀頃に大陸から「大鋸(おが)」と呼ばれる二人挽の縦挽鋸が導入されると両刃鑿とも材割鑿とも呼ばれていた鑿は次第に姿を消したと言われる。

 今も中国の雲南省昆明市や各地の青空市場では中国式の袋鑿が店頭で売られている。「柄はないのか」と通訳を通じて聞くと「柄は自分で作るものだ」「寇(かつら)はないのか」と聞くと「知らない」と言う。中国鑿は寇はないようである。また、「五金行(ごきんこう)」と書いた看板の店は金物店である。薄暗い店内には袋鑿が数多く並べられ、故西岡常一棟梁が昔、満州で買ったという飛鳥型の鑿がある。また棟梁が飛鳥型の袋鑿に曲がった柄を装着すれば釿としても使えると言われた話を思い出して、片刃の袋鑿と丸鑿を買い、五金行の店を後にした。

 平成13年、神戸の竹中大具道具館で「木をうがつ」と題した企画展が開かれた。古代から現代まで建築の部材に穴を穿つ道具の発達史を写真とパネルで紹介し、縄文時代の鑿、弥生古墳時代の鑿、古代の鑿、中世の鑿、近世の鑿、近代の鑿を克明に解説していた。また、「東方道具見聞録」と題した企画展もあり、中国鑿が多く展示されていた。中国鑿はほとんどが袋鑿で、寇はなく、柄の頭はかなり痛んでいた。中国鑿は石器から青銅を経て鉄器に至った道具で、かなり古くから存在していたと説明されていた。中国では鑿の頭を叩くのは槌など使わず、今も斧の平面を使っている。反対に叩くことがあり、指のない大工が多いと聞く。館内には国内、国外の大工道具の収蔵点数が約二万点に達しているという。ここに集められた大工道具は幸運にも全国で生き残った道具たちである。

 館内の三階展示室には名工の鍛えた鑿がある。「無銘の石堂」二寸の広鑿。石堂是一作。明治時代「加賀梅一」の作、一寸八分の広鑿と一寸の中薄鑿。明治-大正時代「左久弘」の作、六分の本叩きと八分の本叩き。明治〜大正時代「善作」の作、八分の突鑿と八分の中薄鑿。「三代目善作」の作、一寸六分の大入鑿は縞模様の地金に首を廻して鍛える技法は実に見事で昭和初期の作品である。初代の善作、二代目が長男の徳次郎、三代目が次男の重次郎であるが、彼の作品には銘の入ったものが少ない。関西の大工であれば、「善作鑿」と言えば、名が高く、知る者が多く、今も年配の大工は使っている者が多い。

 奈良県山辺郡都祁村吐山の農業、中尾政彦氏が三代目善作が鍛えた鑿、鉋、玄能、罫引を持っていることを知り、見学させてもらった。第二次世界大戦の末期、善作は大阪より妻子を連れて奈良の吐山に疎開してきた。農家の納屋を借り、鍛冶仕事をしては製品を食糧と交換して生活した。その貧しい時代に鍛えた墨流しの美しい文様のある九本組の本叩き鑿が中尾氏宅にある。善作の銘はないが見事に鍛えられている。その名工が昭和28年頃、仕事着の上に荒縄の帯を締め、大阪の町を一人、とぼとぼと歩いているのを見かけた人がいたが、その後の消息は不明で、「幻の善作」と関西の大工連中が呼んだ。しかし善作ファンの大工が追い求めたが、とうとう見つけることができなかった。名工は去っても名品は今も残り、道具の愛好者たちの目を楽しませてくれている。富山県東砺波郡福野町広安に三代目善作の弟子である野村俊信氏がいる。善作四代目である。福井県武生市の宮大工、直井光男棟梁が野村氏と会い、見事な墨流しの平鑿一丁を購入している。