大工道具に生きる

0875(25)4468
  大工棟梁 香川量平
(のみ)の話(2)



 最近、大手の建築会社が大きなマンションを建て、安く販売したが、震度5の地震で崩壊する危険性があると国から判断されて、もったいない話だが取り壊している。実に馬鹿げた話である。そのマンションを設計し、販売した業者たちは、金儲けのために、人様の尊い命を石ころ同然に扱った。その悪い心に国民一同が今、立腹している。

 昔、私が大工の見習いであった頃、垂木に釘一本打ち損じても親方が「人様の命を預かる大切な家だ、正確に打ち直すのだ」と大声で怒鳴られたものである。昔の大工の棟梁は人様の命を守るため、工事のすべてに細心の注意を払いながら家を建てていたのである。しかし地震で崩壊する危険ありということを知り得ないで一生一度の大買物をした側にも責任はある。知らぬ存ぜぬでは通らない。なぜよく調査しなかったのか、今の建築界の安い建物には注意を要する。その建物を見掛倒しと私は言いたい。

 さて、鑿にも哀れで悲しい物語がある。兵庫県姫路市にある国宝の白鷺城(別称「はくろ城」)を築城したときの物語である。時の城主、池田輝政は九年の歳月を要し、堅固で壮大な五層六階の天守閣を築き上げた。大工の棟梁は達人と呼ばれる宮大工の櫻井源兵衛であった。源兵衛は精進潔斎して設計図を作成し、すべての工事の指図を自らが行ない、この大工事に取り組んだのである。そして源兵衛の血の滲むような努力と働きによって無事に城が上棟したのであったが、誰いうとなしに天守が東南に傾いているという噂が広まった。噂を耳にした源兵衛の妻が天守を見に行ったところ、噂の通り東南に傾いているではないか。妻よりその話を聞いた源兵衛は、女の目に天守の傾きが見えるのであれば、棟梁としての落ち度だ、失格だと涙を流して残念がったという。噂が普請奉行に聞こえ、天守より「下げ振り」をおろす指示が出され、地上一階の四斗樽に水が満々と張られ、鉄の大きな分銅が天守より四斗樽の水の中におろされたのである。それを聞いた櫻井棟梁は、下げ振りの神である「北極星(大工が昔から崇拝する垂直の神)」を一心になって祈願したが、その甲斐なく東南に約三寸(9p)傾いていることが判明し、その傾きが城主に聞こえたことを知った櫻井棟梁は責任を感じ、長年愛用の大鑿を口に銜え、天守閣より飛び降り自殺したと伝えられている。時に棟梁60歳であった。しかし昭和に入っての大修理によって、傾いていた天守閣は地盤沈下によるものであったことが判明した。また天守の二層の心柱が約二寸(6p)傾いているのは城の安全性を保つため、わざと棟梁が傾けてあったことも判ったのである。昭和の大修理によって数多くの発見があり、櫻井棟梁の自殺説も今、疑問が投げかけられている。白鷺城秘話である。


 昔から職人といえば酒好きの者が意外に多い。昔、讃岐には左甚五郎という名工の宮彫師がいたが彼も若い頃から大酒飲みで寛永11年、41歳の若さでこの世を去っている。そんなところから「左甚五郎鑿一丁」という故事が生まれたのであろう。また昔の大工や石工にも酒飲みが多く、その連中を「左党」と呼んだ。左の手には鑿を持つので「のみて」、右の手には槌を持つので「つちて」と呼び、左党とは酒飲み仲間のことで、「左利き」と言えば、酒飲みを表す大工の隠語なのである。昔の大工集団には数多くの掟があり、その長たる大工の棟梁は泥酔してふしだらな行為を人様に決して見せてはならない。また、その掟が守れぬ棟梁であれば、その資格はなきものという厳しい定めのようなものがあったと昔、古老の大工から聞いたことがある。

 我が国の古い漢和辞書である「倭名類聚鈔」に鑿の説明がある。鑿は柄が付き、和名で能美と呼び、木を穿つ器である。檍とは鑿の柄の名前である。また「和漢三才図会」には、鑿は木を穿つ器であり、檍は鑿の柄であり、鑿には大小数種あり、「壷鑿(つぼのみ)」は竹を割った如く、丸い穴を穿つ。また「佐須鑿(さすのみ)」は柄の長さが尺(33p)近くある。「鐔鑿(つばのみ)」は船大工がこれを用いる、と説明している。壷鑿の刃は丸く、捲鑿(まきのみ)とも呼び、現在では丸鑿と呼んでいる。また佐須鑿とは「大突」のことで、最近、三木市の高田良作氏が全長二尺六寸三分(約80p)で刃巾は二寸五分(7.5p)で柄は黒檀作りの大突を鍛えている。

 鐔鑿というのは、昔、船大工や宮大工が使っていたもので最近はほとんど見かけない。船大工が杉の船板を接合しようとするとき、船釘を通しやすくするため、この鑿を接合部に打ち込む。抜き取るときは柄の下の鐔を叩き上げて抜く。刃は薄く曲がったものと、直のものがあり、先端は尖り、片鐔と両鐔がある。船大工はこの鑿を「釘差鑿(くぎさしのみ)」と呼んでいる。また宮大工が使う鐔鑿は両鐔で太く、先端は尖り、和釘を打ち込む穴を穿つため、木部にこの鑿を打ち込む。抜くときは船大工と同様、鐔を叩き上げて抜く。近年これらの鑿も電動錐の普及で、その姿を見ることができない。しかし四国松山市の鍛冶、白鷹幸伯氏が錦帯橋用の大きな鐔鑿を製作している。

 大工道具の中で種類と数が一番多いのは鑿である。その理由は大が小を兼ねることができないからである。鑿を大別すると「叩き鑿」「突鑿」「特殊鑿」の三つに大別される。叩き鑿を「本叩き」とも大工は呼ぶ。新築する構造材の加工に使う鑿で、一日中ガンガンと頭を叩くので鑿首も太く、刃も厚く頑丈な鍛えとなっている。しかし最近は電動工具の普及で「中薄鑿(ちゅううすのみ)」を使う大工が多い。昔は「穴屋」と呼ぶ穴ほり専門の職人がいた。一般の大工が使う鑿よりも一回り太くて頑丈な鑿であるため、「穴屋鑿」と呼んだ。玄能も大きなものを使っていたが、自分の腕力と体力に合う玄能を鍛冶屋に鍛えさせていた。叩き鑿を細かく分けると「追入鑿」がある。この鑿は大工が造作の折に使う鑿で、叩き鑿より一回り小さく、鑿首は細く刃も薄いものが多い。追入鑿は明治の初め頃に作られるようになったようであるが、それ以前は叩き鑿のちびて小さくなったものが使われていたという。現在の木工界で一番多く使われているのが追入鑿だといわれているが、最近の建築材は集成材が多く、鑿の刃先がひどく傷むので「粉末高速度鋼ハップ四十」という特殊鋼で鍛えられている「平待ち木成鑿(ひらまちもくせいのみ)」が大工の間で現在のところ好評のようである。


 「江戸萬物事典」によると、昔、鑿を「さく」と呼び、柄を「けい」と呼んだ。鋸を「きょ」といい、鋸鑿(きょさく)といえば、鋸と鑿のことで、鑿断(さくだん)とは鑿で木をたち切ることである。また鑿跡(さくせき)とは鑿の刃跡のことを意味する。「和漢船用集」には鑿の絵図が多く書かれているが、現在の鑿の姿や形とほとんど変わっていない。絵図の中に「無刃鑿(はなしのみ)」というのがある。この鑿は、昔、船大工が自作したもので、船の修理や解体の荒仕事に使ったもので、「ばらしのみ」とも呼ぶ。絵図にある「打抜鑿(うちぬきのみ)」は、昔、船大工も使っていたが主に建具職人が建具のほぞ穴を穿つとき、鑿屑を打ち抜くのに使う、刃は無く先端が平角になっているので、大工も玄能の柄が折れ込んだときなどにこの鑿を使って追い抜くので「追抜鑿」とも呼ぶ。

 木の国と呼ばれる我が国には古い昔から木材を上手に加工して生業とした職種が数多くあり、それぞれの職人たちは自分の細工に適した鑿を刃物鍛冶に注文して鍛えさせたので見知らぬ特殊鑿が数多くある。「向う待ち」という鑿がある。建具職人が建具材にほぞ穴を穿つとき、打ち込みながら向うに捏ねるので背の部分の肉が厚く頑丈に鍛えられている。「平待ち鑿(ひらまちのみ)」というのもある。薄鑿でほぞ穴の側面を突くのに都合よく、大工も家の造作仕事のときによく使う。また「二又鑿(ふたまたのみ)」とも「二丁鑿」とも「二丁向う待ち」とも呼ぶ鑿は建具のほぞ穴を一度に二本の鑿で穿ったように二つ正確に仕上げることができるので建具職人は仕事の能率が上がり、大好評であった。また突鑿のような「組手腰鑿(くでごしのみ)」がある。この鑿は建具職人が面取り障子の組手腰を取るのに使っていたもので、昔は鉾の形をしたもので突いていたが改良され、両方一度に面を取ることができた。しかし昭和30年頃から動力の穴ほり機や大型の木工機が導入され、長年使われてきた建具職人の手道具は次第にその姿を消していった。

 最近の建具は技術の向上と優良木工機と強力な接着剤により、建具のほぞ穴は貫かず、「突止め穴」としているので建具が高級化しているように見える。四国では、このような穴を「より込み穴」と呼ぶ。その穴底の鑿屑をかき出して平らにする鑿を「底ざらえ鑿」とか「かき出し鑿」と呼び、今も建具職人は使っている。四国の大工は「突止め穴」を「袋穴」と呼び、その穴に追い込むほぞを「袋ぼそ(ふくろぼそ)」と呼ぶ。最近の大きくて重い洋風のドアなどは穴を穿ち、ほぞを入れるという細工は無く、1p程の丸栓がほぞがわりに打ち込まれ、接着剤によって組み立てられている。

 昔から鑿の柄(つかとも呼ぶ)は白樫の芯持ち材が最高とされてきたが、赤樫やグミ、檀木、黄楊(つげ)などもある。昔、穴ほり専門の穴屋という職人は、鑿の柄に乾燥した秋グミの芯持ち材を使用した。大きな玄能で一日中叩くので、柄に叩き割れがよく生じたが、秋グミの柄はどうしてか割れのこびきがが少しも掌に感じず、また掌の汗を引き、鑿廻しが大変に楽であったという。鑿廻しとは、掌の中で自由自在に鑿の柄を持ち換えられることであり、穴屋の職人たちは秋グミの利点を知り、好んでよく使ったのであろう。大工も昔から秋グミの利点を心得ていて、よく自作したものであるが、最近は便利で正確で楽な電動工具の普及で、現在の大工はその利点などには無関心のようである。