大工道具に生きる

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  大工棟梁 香川量平
指金(さしがね)の話(1)

永六輔氏と著者(右)

  大工の三宝の一つである「指金」の話から始めます。昔から指金には色々と変わった呼び名がありました。 曲尺、鉄尺、尺金、大工金、矩差(かねじゃく)規矩尺(くぎじゃく)などですが差金には色々な伝説があります。
 古い昔、聖徳太子が十五歳の時、百済の国に秦河勝なるものを遣わせて算具と工匠の堂宮建築の手法用具を我が国に持ち帰らさせたと言う話が伝えられていますし、 大阪の玉造(たまつくり)に聖徳太子が四天王寺を建立したとき中国の隋から番匠を招いた。その番匠達が大工道具と共に携えてきたのが横手がついた指金であった。
 その指金を正目手本として難波(大阪)の指金作りの職人が連綿として今日まで受け継いできた。という話ですが、 指金の歴史は古く、その上、大陸から伝えられた渡来尺であるために数々の伝説が生まれたものと思われます。


妻手の丸目

 指金には長い方と短い方があり、長い方を長手とか長腕、長枝と呼びます。短い方を短手(妻手)、短腕(つまうで)短枝(たんし)と言い、直角に曲がった角の所を「矩の手」と昔から言われています。 また指金の裏目(角目)には表目寸法の√2倍の伸び目盛があり、短手の裏の内目には丸目といって丸材の円周が一目でわかるという便利な目盛が刻まれています。 またいろいろな補助目盛もあります。 長手の裏目の内側には魯般尺(ろはんじゃく)とか北斗尺、門尺、天星尺、玉尺、吉凶尺、八掛尺、門明尺と呼ばれる中国伝説にまつわる目盛があります。
 この目盛の寸法は一尺二寸を八等分し、一等分を一寸五分として、財、病、難、義、官、劫、害、吉としています。 この寸法は中国の大工の神様と呼ばれる魯般という人物が作りだしたという伝説があります。
  我が国の魯般尺は一尺二寸を八等分していますが、中国の魯般尺は表目の一尺の対角線である一尺四寸一分四厘二毛の寸法を八等分しているので、日本の魯般尺と中国の魯般尺には二寸一分四厘二毛という差があります。 中国では今もこの魯般尺を使って、仏壇や仏具などを作っていますが我が国では現在はほとんど使われいません。
 昔の宿曜道(ゆくようどう)と呼ばれる中国式の占星術(せんしょうじゅつ)から来た迷信上の寸法ですが今も古老の大工が上棟式の時、棟札を作るのにこの寸法を使っているのを見ることがあります。この寸法は天竺(インド)が起源の天文暦学で星の運行を人の運命に結びつけて吉凶を占うというものさしなのです。


中国の魯般尺

 昔、豊臣秀吉が大阪城を築城したとき、この魯般尺を使ったという話が今も大工仲間に語り継がれています。
また旧家の古い門を解体したときに「門尺が使われている」と親方が言ったことがありました。
 このさしを何故北斗尺と呼ぶのかと聞かれたことがあります。この北斗尺には中国の伝説があります。
 古い昔、魯の国に大変器用で頭のいい大工がいました。この大工を魯般と呼んでいました。ある時皇帝より、「人民が驚くほどの楼門(ろうもん)を建立せよ」という命を受けたのですが、寸法を割り出す「ものさし」がなくて毎日思案していた。 ある夜夢の中で北斗七星の四番目の星である「分曲星」が現れて、困っている魯般を連れて分曲星に行き建物の「ものさし」を教えました。大喜びで帰ったところで夢が覚めるのです。 魯般は早速「ものさし」を作り、見事な楼門を建立したという中国の伝説です。その伝説にもとずき、今もこの「ものさし」を北斗尺と呼んでいるのです。
 江戸時代に平内正信という堂宮大工が書き表した「匠明」という秘伝書の中の奥書に、古い昔、中国に震旦国(しんたんこく)があって、その黄帝の「臣離宴(しんりろう)」が「式尺」を考え出して作り、その後、魯般が伝えて、作り直したと書かれています。
 夢の中で分曲星から教わったという北斗尺の伝説話は、もしかすると震旦国から、魯般が教えられて帰ってきたのではないのだろうかと一人考えをしています。
 魯般尺を「吉凶尺」とも呼んでいる理由は、指金の裏目の内目に刻まれている文字の「財」は吉寸で、この寸法の中に入れば、幸せよく、財宝を得るとなっています。建築では棟木や大黒柱の寸法に用いる。
「病」の寸法の中に入れば、家内一同が病気多く、悪き事多し。
「離」の寸法の中に入れば、早く親と別れ、子供とも離れ、すべてのこと悪し。
「義」の寸法の中に入れば、すべてのこと良く、仕合わせで思い通りになる。
「官」の中に入れば、家の者出世して、すべての者、長生きができる。
「劫」の寸法の中に入れば、家の者に非義、非道が生まれ、散財、盗難のおそれがある。
「害」の寸法の中に入れば、家の者、死人多く、災難も多く、不吉の寸法である。
「吉」(中国では本)の寸法に入れば、すべてのこと望み通りになり、なすことすべて発展する。
このように、吉と凶になっている寸法であるため「吉凶尺」と呼ばれているのです。また指金一枚で昔の大工の棟梁は、墨曲の術いわゆる、規矩術を使って、見事な木造の堂宮建築を建立しているのには驚かされます。

指金
上:鉄製 中:真鍮製 下:ステンレス製

 指金を鉄尺と呼んだのは、昔の指金はすべてが鉄製で玉鋼(たまはがね)で作ったものでした。昔の大工の弟子は、朝一番に親方の鉄の指金を藁灰で磨くのが仕事であったそうですが、その後真鍮製の指金が製造されて磨く必要があまりなくなったのですが、「(かね)の手」が弱く、角に鉄を入れたものも出回りましたが、昭和の初め越後の三条でステンレス製の指金が作られて、木工職人は大変喜んだそうです。 錆びることなく、矩の手も丈夫で狂いも少なく、弾力があって、大変に目盛が明確で、全国の木工職人を驚かせました。
 しかし昭和三十四年に指金の使用が禁止されました。日本の法律が「尺貫法」を禁止したからでした。その当時の木工職人は大変に困り、指金の入手に大変でした。 特に大工職人は指金がなくては在来工法での墨掛(すみがけ)ができなくなるため、私も指金集めに一生懸命でした。特に私の親方は毎日カンカンに怒って、政府の行政の悪さに抗議するのだと、私たち職人にあたり散らしていました。 その後全国的に指金を残そう運動が盛り上がり、永六輔さんが先頭に立って政府に強く抗議したおかげで、在来工法に必要な指金は使っても良いという通達が出た時の親方の喜びは大変なものでした。職人一同が朝まで親方の家で飲み明かしました。 しかしその喜びも束の間で、私の親方は黄泉(よみ)の国へと旅だってしまいました。しかし私にこんな遺言めいたことを言い残しています
「お前は若いから、もし永六輔さんに会うようなことがあれば貴殿のおかげで、日本の建築文化が消えずにすんだ」
と伝えてほしいと言い残してこの世を去りました。
 先日、奈良の松田豊さんにこの話をしたら、奈良には永六輔さんは時々こられるから、お礼を言いなさいと言ってくれました。