大工道具に生きる

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  大工棟梁 香川量平
指金(さしがね)の話(2)

 古い昔から「大工の三宝」とか「三種の神器」と呼ばれる大工道具は「指金」「墨壷」「(ちょうな)」ですが、特に大切なのが指金です。大工は指金を取り落としたりは決してせず、大切に取扱ってきました。大工の棟梁の家では毎年正月には、「指金」「黒壷」「釿」を三方に乗せて床の間に三が日のあいだ飾り、一年間の建築工事の安全と、関係者一同が怪我なきよう、御神酒を供えて祈願してきました。


薬師寺の釿打ちの儀

 現在の建築工事の現場では「起工式」と呼ばれる建築の儀式では、地鎮祭と釿始めの儀式が同時にとり行われていますが、昔は工事に着工する前に「釿始めの儀」が行われていました。大工の棟梁は、床の間に「大工の三宝」と呼ばれる三つの大工道具を飾り、正月同様、工事の安全を神に祈願した後には、関係者一同が酒と(さかな)で祝盃をあげていました。
 奈良の薬師寺講堂の釿始祭では、(のこ)の儀、墨矩(すみかね)の儀、墨打の儀、(ちょうな)打の儀などが古式にのっとり行われていました。


竹中大工道具館蔵
中国の門尺

 神戸の竹中大工道具館の研究紀要、第九号に沖本弘氏は、金剛組の儀式ヤリガンナと題して、聖徳太子の頃より四天王寺の正大工職を連綿と受け継いでいる金剛家は、毎年一月十一日に「手斧始めの式」を行っている。この式で飾られるヤリガンナがある。と述べている。この式場には大工の三宝である「指金」「墨壷」「釿」が三方に乗せられて飾られていることでしょう。
 第三十三代の女帝であった推古天皇の御代、聖徳太子が十五歳の時、百済の国へ「泰河勝(はたかわかつ)」を遣わせて、工匠の大工道具一式と堂宮建築の手法を我が国に持ち帰ったという話は当初に申し上げましたが、「泰河勝」という人物は、第十五代目の應心天皇の御代に百二十七県の民を率いて我が国に帰化したという「弓月君(ゆみづきぎみ)」の子孫で、泰の始皇帝の第十四代目の(そん)であったといわれています。しかし伝説にしろ「泰河勝」によって大陸から伝えられた指金が現在日本建築の礎となっているのです。
 現在、泰河勝は京都の広隆寺に聖徳太子と共に祀られています。聖徳太子が我が国に仏教を導入したのと同時に新しい建築技術も伝えられました。それを仏寺建築と呼んでいます。百済から、大工、瓦工、仏師など多くの技術者が移入した折、大工道具も一緒に伝えられたのです。その職人たちの道具箱の中に指金もありました。しかしその当時の指金は金属製ではなく、木製であったと想像しているのです。


中国製
インチ、センチ、尺目

私は金属製の指金を求めて、中国での旅を続けました。しかし日本のような指金は見当らず、最後は雲南省のシーサンパンナまで行ってみましたが金属製の指金はなく木尺に寸の目盛の入った直尺が取付けられている指金でした。小泉袈裟勝(けさかつ)氏の「ものさし」の著書によると、「建築工芸技術の渡来以来、長い間指金の寸法を維持してきたのは、おそらく渡来した技術者たちであったろう、彼等は建築技術者だけでなく、金工技術者も混ざっていたから、「ものさし」作りも彼等の仲間の内で行われたにちがいない」と述べています。その文面から推察すると我が国に伝えられた当時の指金は木尺であろうと私は思うのです。
 しかし伝えられた指金は五種類もあって、その中で一番いい指金を一本選んで日本の指金の基本としたのが聖徳太子であるという伝説話があります。指金を作ったので聖徳太子は大工の神様としているのだと大工仲間で昔から言い伝えられています。
 最近、縄文遺跡から掘立て柱の穴が各地で発掘されています。青森市の三内丸山遺跡から発掘された直径一メートルを越えるクリ材の柱根が残っていたと報じられた時には驚きました。長方形に六本の柱が整然と並んでいたというのです。私が以前から疑問を抱いていたのは、これらの建造物の尺、寸でした。最近観音寺市出身の国立民族学博物館の教授である小山修三氏にお会いして、縄文時代の建造物の尺、寸の説明を聞くことができました。三内丸山遺跡の建物の柱の間隔が四.二メートルで三十五センチの倍数の尺度が使われているという説明を受けました。この尺度は高麗尺(こまじゃく)と呼ばれ、縄文時代から古墳時代の後期まで使われていたそうです。失焼した古い法隆寺も、この高麗尺が使われていたそうで、五千年の昔から、古い失焼した法隆寺まで、この尺度が使われていたとすると、三千七百年もの長い間、この高麗尺と呼ばれる尺度が使われていた事になるのです。私が不明だった、神代時代の「(あま)御量(みはかり)」という尺度は、この高麗尺であったのかもしれません。