大工道具に生きる

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  大工棟梁 香川量平
墨壷(すみつぼ)の話(1)

三種の神器
故西岡常一棟梁の儀器

 我が国の大工は古い昔から大工道具の「指金(さしがね)」「墨壷」「(ちょうな)」を大工の三宝とか三種の神器と呼んで、お正月の(さん)が日これらの道具を棟梁の家の床の間に(まつ)り御神酒をお供えして、その年の一年間の工事の安全と関係者一同の無病息災(むびょうそくさい)を棟梁はお祈りしています。
 大工道具の三宝の一つである墨壷の話ですが、墨壷の歴史は大変に古く、古代エジプトではすでに使われていたと厚木市の大工棟梁、前場幸治さんは言います。
 テーベ墳墓(ふんぼ)の壁画の中に石材に墨打をしている絵図が描かれている。この遺跡は貴族であったトトメス三世からアメンホテプ二世時代の宰相(かんそう)(建設大臣)レクミラ墓の奥室の壁画に描かれている。テーベ墳墓は紀元前約一千五百年ほどまえの建造であるから、今より約三千五百年の昔に墨壷があり墨打ちの技法がすでに行われていたと言うのです。しかし現在私たち大工が使っているような墨壷ではなく、石箱が数多く出土しているところから見ると、石箱の中の墨に糸を浸して石材に墨打ちをしたのだろうと前場さんと語り合いました。古代エジプトの優れた石割技術や石材加工、石積技法は墨壷や墨打ちの技法と共にヨーロッパに伝えられたのでしょう。


レクミラ建設大臣の壁画
墨線を引く図 前場氏提供

 東洋での墨壷の起こりは古代中国とも天竺(てんじく)(インド)とも言われていますが、中国の大工の神様ともいわれる「魯般(ろはん)」が蜘蛛(くも)が糸を吐き出しているのを見て墨壷という大工道具を考え出して作ったという伝説があります。中国では墨壷の事を「墨斗(ぼくと)」とか「墨線(すみせん)」と書き「モーシエー」と呼んでいます。
 我が国に墨壷が伝えられたのは飛鳥時代、仏教と共に仏寺建築が紹介され、大陸から数多くの建築技術者が道具箱を携えて、我が国にやってきたのです。その道具箱の中に墨壷があった訳です。


中国の墨壷

 仏寺建築によって、縄文時代から伝えられた掘立て柱の建築工法は消え、礎石(そせき)の上に柱を立てる仏寺建築の新しい建築工法に移行していったのです。
 飛鳥時代、大陸から伝えられた仏寺建築より以前、掘立て柱ですが「ヌキ」や「渡りアゴ」の加工が施された建築物が発掘されています。このような木材の加工技術には一揃の大工道具が必要であったと思われます。建物の寸法の割り出しには「(あま)御量(みはかり)」といわれる「高麗尺(こまじゃく)」が使われ、墨打ちには厚木市の前場幸司氏がボルネオで購入したという幼稚な墨壷が使われていたのではないかと説明を受けました。また前場氏は群馬県榛名山の古墳の石積に「紅壷(べつにぼ)」による墨打ちの跡が数多く残っているし、飛鳥のマルコ山古墳の天井の石材にも同じような墨跡が残っているそうです。


ボルネオの墨壷
前場資料館蔵

 出雲の「たたら製鉄」の跡に今も幼稚な墨打の技法を今に伝えているところが一ヶ所あり、炉を築く折、地墨を打つのに麻紐(あさひも)に墨をくくませ、墨打ちし、直線を引き出しているといわれています。
 我が国では墨壷のことを古い昔「(じょう)」と呼び、そのほかにも「墨縄(すみなわ)」「墨頭(ぼくとう)」「墨斗(ぼくと)」とも呼んでいました。
 「日本書紀」の中に新羅系(しんらけい)の工匠であった「韋郡部真根(いなべのまね)」が登上しますが、彼は仏寺建築が伝えられる以前の工匠ですが、第二十一代の雄略天皇になぜ殺されようとしたのでしょうか。命乞(いのちごい)に歌った工匠の仲間の歌の中に「墨縄」という文字が見られます。


銀平脱龍船墨斗
(墨壷)正倉院蔵

 我が国で現存する最古の墨壷と言われる「銀平脱龍船墨斗(ぎんぺいだつりゅうせんぼくと)」が平成二年の正倉院展に出展されていました。長さ29・7センチ、幅9・4センチ、高さ11・7センチで龍頭をかたどった墨壷でした。説明書によると「船形の墨池の船首に龍頭を飾り、寄木造の素地に麻布を着せ、下地を施して黒漆(くろうるし)塗布(とふ)して仕上げ、龍頭の一部と船形の上半に見られる斑文、船形の下半を飾る花菱形裁文(はなびしがたさいもん)はいずれも銀平脱の手法によっているが、糸車などの一部を欠失している。なほ龍の顔面には白色を塗り、耳と口に朱色を点じている。眼も朱彩、眼玉には金箔を貼る。伝世の墨斗としては我が国最古の遺品であるが、装飾性に富む造作からみて、実用品と言うよりは儀式用具の可能性が高い」と説明されています


正倉院の紫壇銀絵小墨斗

 正倉院の中倉にはもう一口の小さな墨壷が遺品として残されています「紫檀銀絵小墨斗(したんぎんえのしょうぼくと)」と名付けられています。長さが四・二センチで幅と高さが一・五センチと小さな紫檀で作られてた墨壷です。側面の表と裏に銀泥で含綬鳥(がんじゅちょう)と飛鳥が描かれていますが、今もかすかに残っています。回手は銀製です。片方の側板と回手と糸車は明治時代に新しく作りかえていますが、昭和三十年頃に当初の糸車が発見されました、その糸車は鹿の角で作られたもので絹糸が三巻ほど残っています。その糸には着していた白色顔料は鉛白(えんばく)と考えられています。


白墨
正倉院蔵

昭和六十二年に正倉院から出展されていた「白墨」についての説明によると「わずかに黄味がかった白色棒状の墨で、厳密な質で比重は重く、材質は奈良時代以降、白土と共に白色顔料として多用された鉛白を塗り固めたものと考えられ、硯ですり、もっぱら経巻などの誤字の訂正や注記に用いられた」と説明しています。この小さな糸車の絹糸に鉛白とみられてるものが付着しているところから見ると、ハート型の墨池の中に白墨を入れて、文字の修正用具として使ったのではないかと私は考えているのです。この紫檀銀絵小墨斗は尻割れ型と呼ばれています。故村松貞次郎先生は「墨糸の出る側が頭ですので当然、割れている方が尻となります。尻割れ型という呼び名は私が名付けたのです」と私に申されました。


春日権現験記絵

 墨壷の「すぐち」と呼ばれる頭の部分から引き出される墨糸は絹糸が使われていますが、その絹糸の先端には「軽子」と呼ばれる小錐が付いたものがあり、これを猿子、仮子、弟子などと呼んでいます。大工が墨打ちする時、先端の軽子は、弟子が持つことになっています。そのような訳で、軽子を弟子とも呼ぶのです。また大工の見習を「軽子もち」などとも呼びます。東北の民話の中に軽子の話があります。昔、軽子という親孝行の娘がいました。大工である父親は墨壷の糸が止まらず大変苦労している父親の姿を見て、母親が着物を縫うとき、布と針で留める仕草を見て、小さな木に針を植えたものを考え出して、大工の父親を助けたので、その娘の名前をとって軽子と名付けたという話があります。また故村松貞次郎先生は軽子とは、荷車をひく者から出た言葉であると説明しています、お隣の国、中国では替母(かえぼ)とか師母(しぼ)と呼んでいます。中国の大工の神様である魯般(ろはん)が母に軽子もちをさせていたが、母が老いてしまって軽子もちが出来なくなった時、釣針にヒントを得て軽子を作りだして、母の替わりにしたので替母と呼ぶようになったという伝説があります。しかし、今のように軽子を使って墨打ちをする技法は意外と新しく、現存する軽子の付いた墨壷は、日光二荒 山神社の元和五年(一六一九年)に再建された折に儀器としてお供された墨壷が一番古いものとされています。