大工道具に生きる

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  大工棟梁 香川量平
天狗の(まさかり)

 私が小学校に通っていた幼い頃、家に腰の曲がった「コマ婆さん」という昔話が上手でお人好しの祖母がいて、いたずらをしたり弟たちを泣かすと「お前、狗賓(ぐびん)さんに連れて帰ってもらうよ」とよく叱られていました。「狗賓さんとは誰だ」と言ったら「狗賓さんとは天狗さんのことだ」「天狗さんがなんだ」「怖くないのか、天狗さんはお前の父さんよりもずっとずっと大きくて鼻は高く、顔は赤く、手にはヤツデの葉のような団扇(うちわ)をもち、一本はまの下駄を履き、背中には大きな羽が生えていて空を自由に飛び回り、お前のような悪戯者を探しては山に連れて帰っているんだ」
「あの正面に見える山が讃岐の山で、そのずっとずっと向こうの高い山が土佐の山だ、その奥山には大きな杉の木が千本も二千本も生えていて、その杉の木の枝から枝へと飛び回って暮らしているのだ」「ほう、それは面白いや、ぼくもそんなところで天狗さんと一緒に遊びたい」と言ったら新聞紙を堅く丸めて思いっきり頭を「ポン」と祖母に叩かれた懐かしい思いでがあります。 古い昔から天狗さんは山の神だと昔の人々は信じ「石斧」を「天狗の鉞」などと呼んでいました。
 土雷(つちいかづち)の雷声が稲妻と共に鳴り響き、大雨が降って土砂が大量に押し流され、その土砂の中から偶然に発見された石斧を「天狗の鉞」とか「雷斧」などと呼んで、天狗が山の中で使っていて忘れていったのだと昔の人々は思っていました。
 我が国には昔から「天狗はなし」の伝説が各地に数多く残されています。



”天狗の大鋸”と添え板
星野欣也氏提供

 東京農大の星野欣也先生の話によると、富山県の五箇村に古い昔、天狗が運搬中に空から取り落としたという伝説の「大鋸」が一弦あるそうです。大鋸というのは二人挽きの立挽鋸で、全国各地にあまり残されておりません。
天狗というのは古い昔、中国大陸や韓国から高度な文明や、すぐれた技術、また数々の民具(大工道具も含む)を我が国に伝えた人々ではないかと私は考えています。 しかし、ある古老が「天狗とは雷神の子供である」と私に言ったことがあります。四国や中国地方では落雷のことを「アマオル」と言って「天降る」天の余った力が地上に降りてくるのだといって「アマル」とも呼んでいます。とくに山の立木などに雷が落ちると、天の余った力がその木に宿っているのだと昔の人々は信じ、晴天になると雷の落ちた木を探して、買い求める人もいたのです。
 もう三十数年も前のことですが農家の施主から、入母屋造りで八尾建ての新築依頼を受け、手斧始めも終り、工事に着工した時のことでした。 施主が黒くなった一本の松丸太を持参して「棟梁、この松丸太を小梁(大梁の上に二重に使う小材)に組み込んでほしい」と言うのです。「この松丸太は『アマリ木』でないのか」といったら「さすが棟梁だ『アマリ木』とは良く見た、長年池の中に漬け込んでいたので真っ黒だが、虫などすこしも入っておらん、大丈夫だ棟梁たのんだぞ」と言ったのでした。私が大工の弟子の頃、親方が新築する家には必ずと言ってよいくらい上具材に『アマリ木』が一本組み込まれていました。 親方は鉄の爪で掻きむしったような痕跡は雷の通った道だが、この木の中には天の余った力が宿っているのだと職人や弟子たちに『アマリ木』の由来を聞かせていました。 「この木を上具材の中に組み込めば、その家の家運は日々に上昇して、村一番となり、金銭その他すべてのものが余りくるのだ、そしてその家には落雷の恐れ無しだ」と説明して「お前達も将来、新築する時には必ず『アマリ木』を使うように」と指示していました。そして不思議なことに私が『アマリ木』を組み込んで新築した家は、すべてが物余りきて現在村一番となっています。
 農家の古老から聞いた話ですが、雷のことを「いなだま」と農家の人々は呼び、古い昔から霊的なものと結合して、稲の穂を実らせるのだと信じ、稲妻は「稲の妻」であるから夏の稲妻は稲の実入りが良いと喜び、稲妻は大気中の窒素肥料を無償で稲に配布してくれので農家の人々は雷を喜ぶそうです。しかし、昔から大工の棟梁は雷を嫌っておりました。堂宮建築の大きな建造物が落雷の被害を受け焼失した話が昔から数多く残されております。 我が国の建造物は木造が多いため、その建造物の棟梁は落雷を恐れて、新築の棟礼には火伏せの神であり水神でもある「罔象女神」(みずはのめのかみ)を書き付けます。また新築の棟礼に下端に「水草」と赤白の熨斗(のし)で結び、火伏せの呪い(まじない)として上棟式を行う棟梁も四国にはいます。

閑話休題


鳥魚石斧紋深鉢
中国国宝展より

 我が国の縄文時代には石斧が万能の道具の一つでした。石斧には縦斧と横斧の二通りがあり、縦斧が現在の斧の祖先であります。縦斧の歴史は大変に古く、古代中国の土器が河南省から出土しました。
それは高さが四十七センチあり「鳥魚石斧紋深鉢」と名付けられ、中国の国宝展に出展されていました。 約五千年も昔のもので、側面の図柄の右側に石製の刃をくわえた鳥が居ます。その昔、石斧は生産の道具でもあり、戦に使用された武器でもありました。
この土器は戦勝を天の神に祈るため作られたものではなかったのかと説明されていました。古代の中国では約五千年の昔、木製の柄が付けられた石斧がすでに使われていたのでしょう。
 古代エジプトでも石斧が使われていたのかテーベ墳墓の壁画の中に柄がつけられた石斧を使って木材と思われる物をうち割ろうとしている図があります。


古代エジプトのレクミラの壁画
前場幸治氏 撮影

この墳墓は古代エジプト第十八王朝の貴族で宰相であったレクミラ建設大臣の墓で、厚木市の大工棟梁である前場幸治氏が撮影したものです。墓は紀元前約一千五百年の昔に築造されたものですから約三千五百年前に描かれたものです。しかし斧の刃が石製であったのか銅製であったのかを知ることはできません。紀元前約二千年前に銅の精錬技術の記録があるそうですので銅製の斧かもしれません。
 我が国の縄文時代には万能の道具であった石斧も弥生時代の中頃になると、中国大陸や朝鮮半島から鉄が伝えられ、鉄斧と呼ばれる鉄の刃物が造られるようになって、石斧は姿を消します。 大陸から伝えられた鉄の素材を 「鉄・(金に廷)」と呼んでいます。日本書紀の中の神功皇后四十六条に、百済の「肖古王」から日本の使臣に鉄・(金に廷)四十枚を与えたという記録があるそうです。 この鉄の素材は板状のものや棒状のものでした。 時代が下がると共に鉄・(金に廷)は小型化していったようですが、その当時「鉄・(金に廷)」は貨幣としての価値がありました。私は釜山の市立博物館で「杜邸洞五号墳」から出土したという鉄・(金に廷)を見たことがあります。昔の弥生人たちは鉄という強靱な鋭利な刃物を手にしたとき、驚きを喜びの声をはり上げたことでしょう。鉄が導入されると共に稲作も伝えられ、稲作に適した土地に人が集まり村ができ、鉄の刃物によって暮らしに必要な建物や数々の木製品が作られていったのです。 しかし弥生人たちは大陸から伝えられた鉄の素材から刃物を作り出すのは一苦労したことだろうと考えています。鞴(ふいご)もなければ鉄床(かなとこ)や大鎚に鉄箸もなく、大石を鉄床にし、石を大鎚としたのではなかったかと考える人もいますが、朝鮮半島から渡来した韓鍛冶(からかぬち)によって倭鍛冶(やまとかぬち)の技術は向上していったのです。 苦労した倭鍛冶の伝説話が今に残されています。『ある村で鍛冶屋が鉄を真っ赤に焼き、今日こそ鉄をくっつけようとするのですが何回繰り返しても失敗に終わってしまいます。 頭に来た鍛冶屋は焼けた鉄を外に投げ出してしまいます。夕方、稲藁の上に投げ出されていた鉄を見ると完全に鍛接しているではありませんか、鉄は稲藁と土によって鍛接されることを知ったのです』稲藁と土が現在の硼砂の役目を果たしていたのです。 もう一つの鍛冶伝説は『ある村に一人の鍛冶屋がいました。今日こそは鉄をくっつけようと鍛冶場の入り口に注連縄を張り、火をおこして仕事を始めますが焼けた鉄がどうしても鍛接できません、何回となく繰り返すうちに腹が立ってきます。 ふと見ると白狐が鍛冶場に入ろうとしています、「カッ」ときた鍛冶屋は真っ赤に焼けた鉄を白狐めがけて投げつけます。白狐は入り口の注連縄を外して丸め、焼けた鉄を受け止め、土ぼこりと共に鉄床の上をめがけて投げ返してきたのです。「アッ」という間の出来事でした。鍛冶屋が鉄床を見ると、投げ返された鉄が鍛接されていたのです。鍛冶屋は大声を上げて喜びます。鉄は藁と土によって鍛接されたのです。』白狐は優秀な鍛冶技術を持つ韓鍛冶だったのです。この話は、倭鍛冶と韓鍛冶の出会いの物語が伝説として今に語り継がれているのです。 鍛冶屋が稲荷神の「宇迦之御魂大神」と呼ばれる稲作の神を守護神として崇拝し信仰しているのです。故千代鶴是秀翁も稲荷神を守護神としていたようで、「削ろう会」の鉋の字の左側が金偏ではなく狐の形になっているのをご存じでしょうか。