大工道具に生きる

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  大工棟梁 香川量平
(やすり)の話(1)



 もうずいぶん昔のことであるが、私が中学校に通っていた頃、身体が貧弱で血色の悪い生徒がいた。しかし彼は組一番の成績で特に英語が得意であった。毎晩、猛勉強を続け、もう外国人と英語で話ができると私に自慢したことがあった。しかしその当時、時世は悪く、第二次世界大戦の末期であったため、英語は敵国語であるため、授業から外すと校長が朝礼で指示した。喜ぶ者もいれば、残念がる者もいた。その後、町の書店では英語で書かれている読み物は、すべて日本語に書き換えられていた。英語の授業を一切廃止するという校長の言葉に衝撃を受けたのか、彼は学校をよく休むようになっていた。その頃、四国の高知県にアメリカ軍が上陸してくるという噂が流れ、人々は不安な日々を送っていた。北満の警備に当たっていた関東軍の兵士が続々と本土防衛のため、高知県の海岸線に集結していた。空にはアメリカ空軍のB29爆撃機が四本の見事な飛行雲を引き、中国地方の都市を爆撃していた。時折低空飛行でアメリカ空軍のグラマン戦闘機が飛来し、列車のボイラーが20ミリの機関砲と機銃掃射で撃ち抜かれ、列車が立往生するという始末であった。そんな恐ろしい日のことである。組一番の成績で通していた彼が急に夭逝(ようせい)してしまった。当時昼間の葬儀はままならず、日が暮れかかってから葬儀が行なわれた。

 翌朝、父が彼の死を「猛勉強というのは自分の身体に雁木鑢(がんぎやすり)を毎日かけたのだ」と言い、「蚊の脛(すね)に鑢をかけるという諺があるが、可哀想なことだ」と言ったので、「雁木鑢とは何だ」と問い質すと、「鑢目が鋭く立っているもので鉄の不要部分を擦り落とすものだ」と言った。辞書には雁木とは秋空を飛ぶ雁の行列のように段々となったもの、あるいは船着場の階段の桟橋と説明している。また、違い棚が三段になっているのを「雁木棚」と呼び、古代の穀物倉庫にかかる梯子を「雁木梯子」と呼ぶ。


 鑢の歴史はたいへんに古く、古代エジプトでは銅製の鋸や鑢が出土しているという。しかし鋸の権威者である吉川金治氏は「青銅鋸を一丁製作し、青銅の鑢を作るため、青銅の鏨で鑢目を切ろうとしたが、鏨の刃が一回で潰れた。だが何かうまい工夫があると思う」と説明している。古代エジプトの銅製の鑢は果して作ることができたのであろうか疑問とするところである。

 「鉄の古代史」によると岡山県総社市の「随庵古墳」から鍛冶道具一式と鏨、砥石、鑢が出土している。この古墳は五世紀頃の築造とされている。また奈良県橿原市や宮崎県の遺跡から鑢が出土している。岡山県の金蔵山古墳からも鑢らしきものが出土しているが、小さな鋸が出土しているから、鑢はその当時使われていたものと私は思う。平成2年、正倉院の北倉から「十合鞘御刀子(じゅうごうさやのおんとうす)」が出展された。鞘は黒漆塗りで、一体の鞘に刀子六本、鑢二本、遣鉋(やりかんな)一本、錐一本の計十本が納められている。特に鑢は第四十五代聖武天皇の御遺愛の品であったと伝えられているもので、長さ18.9センチ、本体11.3センチで、鑢は鬼目、柄は黒柿製、もう一本は紫檀製で実に見事な作りであった。他に「四合鞘御刀子」や「三合鞘御刀子」などがあり、その当時の役人たちが装飾と実用を兼ね、腰に着装したものであろうと説明していた。

 平安時代の前期に書き表された漢和辞書である「倭名類聚鈔」の下巻に「鑢子(やすり)」と書き、「夜須利」とも書いている。「鋸歯を利する所以也」と書いている。また江戸時代の中期に書かれた「和漢三才図会」の百工具の項に四本の鑢を絵図入りで説明し、「四声字苑に曰く、鑢は鋸歯を鋭くする器具で銅、鉄をみがき、するもの也。思うに鑢は生鉄をまじえず鋼をもって作る。形はたたみたる扇のごとし、表と裏に細い刻目を作る。以て鉄器を摩剥(まはく)する。大小数種ありて大鋸を利する鋸歯は三稜(さんりょう)也。また獣角を磨くものは歯?(しそ)、これを雁木鑢と名づく」と説明している。三稜とは三つの角という意味で三角鑢のことで、歯?とは鑢目の粗いことをいう。  「和漢船用集」では鑢のことを「・・鋸痕(きょこん)をのこぎりの目と訓す。今、皆目といえり、歯を利するを目立てと云。歯を左右に開くを『アサリ』と云。此者鑢の頭にあり是、芽葉?(めはちけ)也。鋼にて折れやすし、此故に鉄を以前に之を作る」とある。古老の大工の話によると昔は鑢の頭部にアサリ出しの芽葉?が付いていて、自分で鋸歯を一本一本ひねりながらアサリを出していたが、かなりの熟練を要する。その当時は誰もが芽葉?を使っていた。しかし鋸は玉鋼で作られていたので、ねばりがあるので、そのようなアサリ出しができたのであろうが、現代の鋸に芽葉?を使ってアサリを出すのは無理のように思えると古老の大工は今も私に言う。


 昔、私が大工の見習いの頃には親方は金敷の傾斜した角を上手に使い、両刃鎚(アサリ鎚ともいう)で、すこし鋸歯にひねりを入れながら正確に左右に振り分け、アサリ出しを行なっていた。簡単そうに見えるが、長い経験と正確な手の決まりが要求される。鋸の癖を知り、アサリ出しは自分の髪の毛一本と親方は私によく言った。両刃鎚の頭部にキザが付けられているのは目を叩くと、このキザによって鋸歯一本一本に強い腰が入るからである。

 鑢の語源について、古い昔、矢尻を研ぐ道具とも、矢を「する」からとも、「鏃(やじり)」をこするもの、成形するものという意味からこの名が付けられたのではないかと苅山信行氏は述べている。鉄器の出現によって古い昔から鑢は人間に重要な役割を果たしてきた。また鋸の出現により鑢は不可欠な手入れ道具として表舞台で働く鋸を蔭から支えてきた功労者である。昔の大工は鑢を「本地阿弥陀如来」の化身であると信じ、大切に使ってきた。鋸があの鋭い切れ味で木材を切断できるのは鑢の力があればこそである。古い昔から鑢は大工仕事を支え、数多くの名建築を作り上げた協力者である。しかし鑢は雑工具としか扱われず、擦りちびた身を暗い道具箱の片隅でひっそりと横たえている哀れな大工道具である。

 鑢には木工用と鉄工用とがあり、良質の炭素鋼またはクローム鋼で作られているので、炭素の含有量が多く硬質である。現在のところ鑢には500種ほどあるといわれ、数多くの技術者に使用されている重要な道具である。鑢は目と呼ばれる刃によって分けられている。
 (1)単目とは、一方向にしか目が切られていなく、筋目とも呼ばれる。細かい鋼材の切断や鋸の目立鑢である擦り込み鑢として使われる。インチ鑢とも呼ばれ、単目であるため、押してしか使用できない。昔の雁木鑢も単目である。
 (2)複目とは、あや目状に二本の目が切られているもので、一般的に使用されている。左上りの切れ刃を下目、右上りの切れ刃を上目と呼ぶ。三段目と呼ぶ鑢は三本の目が切られているので鋸の目立に使用される。この鑢は往復に使用できるので、八寸鋸や九寸鋸の擦り込みや上目擦りに使われ、胴付鋸などは細目の三段目が使われる。また和鑢とも呼ばれ、「大笹刃」「相中刃」「大挽切」「中挽切」「小挽切」などがある。両刃鋸の上目擦りには、少し使い古したものを使用すると鋸が長切れするようである。
 (3)鬼目と呼ばれる鑢は目を一つ一つ鏨で作り出したもので、トクサ目とも、イバラ目とも、わさび目とも呼ぶ。金属、木材、鉛、アルミなどの軟らかいものに使用する。奈良正倉院の御物である見事な二本の錯(やすり)もこの鬼目のようである。
 (4)波目鑢というのは鑢目が半円状に切られているもので、荒目と中目があり、鬼目と同じく、軟質のものを切削する。
 また鑢は目の切り方によって、単目(筋目)、複目(あや目)、鬼目(わさび目)、波目、三段目などの種類に分けられている。また目の粗さによって大荒目、荒目、中目、細目、油目などがある。鑢の形は断面形状によって、平、角、三角、丸、半丸など多くの種類がある。

 鑢には「壷」と刻印が打たれているものが関西では多い。その理由を苅山信行氏は製造工程に赤味噌が重要な役割を果たしているので、赤味噌を保存する壷からとったとも、師匠すじの大阪の壷井豊次郎の壷からきたのではないかとも述べている。鑢の製造工程で、なぜ食用の赤味噌が必要なのか、疑問を抱くところであるが、鑢の焼入れ硬化に赤味噌が不可欠であり、味噌と鑢が古い昔から深い関係にあり、焼入れのときに赤味噌をつけるという技術は平安時代の前期にすでに行なわれていたという。  780℃の鑢が20℃の水に入った瞬間、鑢の表面は水蒸気膜で覆われる。水蒸気膜で覆われると、冷却が悪くなって焼きが入らなくなる。結果、硬化不良を生じ、鑢は切れない。鑢に味噌を塗ると、冷却を妨げる水蒸気膜が付かなくなったり、膜で覆われてもすぐに破壊されたりして均一に冷やされ、完全な焼入れが可能となる。また味噌に添加した食塩が冷却用の水に溶けて、水の冷却能力が良くなり、焼きが入りやすくなり、焼入れの硬さは最高に達し、良く切れる。また味噌を塗ることによって、鑢の焼割れ防止にもなると苅山氏は説明している。食用の赤味噌と鑢の取り合わせが興味をひくところである。

 戦後の日本を復興に導いたのは鑢であると言った人がいたが、裏方で日本の復興を支えたのは、間違いなく鑢であろう。しかし最近は替刃式鋸やダイヤモンド鑢の進出で蔭の功労者である木工用鋸の鑢が、次第にその影を潜めつつあるのが実に痛々しく思う毎日である。