大工道具に生きる

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  大工棟梁 香川量平
(やすり)の話(2)



 昔、中国の唐の時代、李白という大詩人がいた。彼は幼少の頃から学問を志し、勉学に励んだ。しかし励めば励むほど学問の世界は広く、ついに嫌気がさし、故郷を捨て放浪の旅に出た。ある日のこと、古ぼけた軒下で老婆がせっせと鉄の杵に鑢をかけているのを見た少年李白は「何を作るのか」と老婆に問うと「この鉄の杵を鑢ですりおろし縫い針を作るのさ」と言った。その老婆の一言に、弱い自分の心に鞭を打たれたかのように「ハッ」と気付いた少年李白。忍耐強く努力すれば何事も成し得ることを悟ったのである。早速故郷に引き返し、再び学問の道に励んだという。これが「鉄杵を磨く(てっしょをみがく)」という中国の故事である。また「磨斧作針(まふさくしん)」とか「石臼を針にする」という故事もある。

 昔、木挽が木を縦挽する「ガガリ鋸」を雁木と呼んだ。縦挽鋸は鋭い歯が一列に並んでいるのでそのように呼んだのである。また、二重に大損をしたときなどに使われる「雁木と鑢」という古い諺がある。右側から鋭い縦挽歯で挽きとられ、左側からは鋭い鑢歯で擦り取られるという意味の諺である。大工の墨曲(すみかね)に雁木曲(がんぎかね)という墨出し方法がある。垂木や棒隅木の寸法をこの曲使いで割り出す簡単な方法で、その割出しを雁木曲と呼ぶ。

 何の気なしに使っている台所用品の中にも鑢の仲間が多くいる。「おろし金」や「擂り鉢」である。おろし金は大根や山葵をすりおろす生活用品であるが、専門の鏨(たがね)で一つ一つ穿った目で鬼目と呼び、わさび目、いばら目、石目とも呼ぶ。金属製のおろし金は山葵の味が変わるので、昔から食通の連中は鮫皮のおろし金を好む。関西では「擂り粉木(すりこぎ)」は男性を表し、擂り鉢は女性を表す。讃岐(香川県)では、それを「カガツ」と呼ぶ。カガツが割れたと言えば、村の娘が一人前になったという意味である。「美しいカガツを誰が割ったのだ」と若い衆の間で大騒ぎになったという昔話が今も残っている。


 第二次世界大戦の戦中戦後、物資が不足し、小学生が使う「紙ヤスリ」がなく、母が木賊(とくさ)を煮て乾燥させ、二つ割りにして厚紙に張ってくれ、紙ヤスリの代わりに工作用に使っていた。木賊の表面には小さな突起が無数にあり、珪酸質が含まれているので、おろしが早く、子供たちが好んでよく使った。昔から「木賊と兎(うさぎ)」という心和む美しい絵図があるが、木賊と兎は相性が合うらしい。「竹に雀」も同じで、日本人の心を癒す絵図である。しかし木賊(砥草とも書く)は、古い昔から高級な工作物の研磨材として重宝がられてきた。櫛屋、ロクロ屋、三味線づくりの職人たちは今も大切に使っている。また櫛は日本人の生活用具の必需品として昔から作られてきたが、その仕上げには今も木賊は欠かせない。一本の櫛を作り上げるまでには、長い年月材料の木を乾燥させ、木づくりして、下地を作る。次に「中抜鋸」や「山抜鋸」で間隔を揃えて挽きおろし、木賊を貼ったはずり用の「ガンギリ」と呼ばれる「葉鑢」で毛髪が滑らかに通り抜けるよう歯一本一本に細心の注意を払いながら削り磨き、手触りのよいまろやかな櫛に仕上げる。昔は鮫皮を張った「鮫鑢(さめやすり)」が使われていた。「古事記」の中にも「湯津爪櫛(ゆづつまぐし)」の話が登場しているように、櫛は古代から日本人にとって大切な生活用具であり、その加工に使うやすりが工夫されたのはいうまでもないだろう。

 倉敷考古館に金蔵山古墳から出土した鉄製の木工具が数多く展示されている。その中に四世紀頃の作とされる小さな両歯鋸があるが、古代の人々はこの鋸を使って、アクセサリーや梳櫛(すきぐし)を作ったのであろう。また同古墳から鑢らしきものが出土しているが、私は鋸が出土している以上、鑢であると確信している。

 慶長の頃に描かれたとされる狩野吉信の「職人尽絵(しょくにんづくしえ)」という重要文化財の写本の中に矢師が木賊を使って矢竹を磨いている絵図がある。矢師というのは弓の矢を作る職人である。絵には鷹の羽根を用いて矢羽根をつける者、矢竹を木賊で磨く者など昔の職人の姿が見事に精写されている。木賊は昔から今に到るまで高級な研磨材として多くの職人に使われている。ロクロ職人は最後の仕上げに木賊を丸く束ねて結束して用いる。また京都の高級家具を作る指物師や、三味線を仕上げる職人たちも木賊と椋(むく)の葉を今も併用している。

 私が大工の見習いの頃には欅(けやき)の床板など最後の仕上げには表面を椋の葉を使って仕上げ、さらに落し掛や床框など、床廻り一式を親方が本漆をかけていた。見習いの私は、手を真っ黒にしながら堅炭を使って漆を研いだものである。椋の葉で仕上げているほうが漆の乗りが良いと親方は言っていた。また木賊や椋の葉を「葉鑢」と親方は呼び、仕事場の軒下には糸で通した木賊や椋の葉がいつも陰干しされていた。細工物や家財道具に住宅の床廻りが入念に手入れされ、光り輝いているさまを、昔の人は「椋の葉の百遍磨き」と言って、その人の手入れを誉め称えていた。

 日常に使う爪切りについているのは簡単な単目の鑢であるが、本当の爪鑢というのは「三度切り目」の鑢で、往復にすりおろすことができる。昔、台湾に旅行した折、若い娘さんが「爪の手入れをしませんか」と上手な日本語を使ってやって来た。小さな道具箱の中には爪切りと爪鑢に「キサゲ」のような道具が入っていた。手入れを依頼すると二人がかりで変形した足の爪を入念に手入れして、マニキュアまで塗ってくれた。斜めにすり減った手の親爪を手入れしながら、色白の可愛い娘から「社長さんは何のご職業ですか」と笑顔で聞かれた懐かしい思い出がある。


 第二次世界大戦の末期、四国地方では「燐寸(まっち)」が不足し、家庭の主婦や喫煙者が大変に困っていた。しかし古老の大工は毎日煙管(きせる)でよく一服するので、燐寸の入手を聞くと、巾着形の火打袋を見せて、「火打だ」と言った。香川県には「サヌカイト」と呼ばれる火打に適した黒曜石が産出する。この石と火打鎌をカチカチ打ち合わせると大きな火花を出す。火打鎌というのは、火打がねとも呼ばれ、鍛冶屋が作った炭素を多く含む鋼である。その当時には鋼などなく、古老の大工が使っていた火打鎌は、古びた鑢の小さく折れたものを使っていた。打ち出した火花を受け止めるのが火口(ほくち)と呼ぶパンヤである。パンヤは柔らかい「つばなの花」やイチビなどの繊維質に細かい炭の粉をまぶし、火花で燻りやすい。竃元の火移しは燻るパンヤに、薄板の先に硫黄が塗ってある附木(つけぎ)に燃え移すのである。この火花を打ち出す技法を火打と昔から呼び、一般の家庭では次第に神聖化し、家人の長い旅行や受験生が出発する早朝、邪気を払い精神を統一するため、頭上から火打を行なう習慣が今も我が国にはある。火打道具一式が入っている小さな箱を火打箱(火打筥とも書く)と呼び、家の小さなことを言い表す言葉である。建築用語で「九尺二間」と言えば六帖間で、「廻り八間」と言えば八帖間のことであり、小さな家であることを言い表した言葉である。



 木工の鑢には木鑢がある。十三世紀頃の作と伝えられるこの木鑢、東大寺の法華堂から発見されている。その複製品が竹中大工道具館に展示されている。全長三尺七寸(約112p)で握り手が前後にあり、二人で大きな堅い木材を前後に動かしてすりおろしていたのであろう。鋼製の歯が斜めに四十枚ある。中国ではこの木鑢を「蜈蚣鉋(ごこうがんな)」と呼び、歯が百足(むかで)の足のようであるので百足鉋という呼び名も持っている。