大工道具に生きる / 香川 量平
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古い寺院の上具材10にわたり蘭人から伝えられ、これ以後規矩町見術は必ずこの人を祖としています。「匠家極秘伝」の解説の中で林鶴一氏は「関孝和以前の我が国の数学」の項にも、聖武天皇の頃は、支那から輸入した数学の第一期最高潮時代で当時の教科書として「九章」が用いられている事が記されています。「勾殳玄」は和算で直角三角形のことであるが「九章」の勾殳章から出ているという事を考えるとき、我が国の規矩術の発祥はおよそ、その頃にあると考えるのである。と説明しています。 昭和24年4月に発売された『美術手帳』の中に、「指金がいつ頃から我が国で使用されたか詳しいことは明らかでないが、以上の事実(法隆寺の秘密)から見ても、法隆寺の草創にまでさかのぼる事は明らかであり、その伝統の古いことが痛感させられる」と説明しています。 指金について私の想像話をお聞きください。指金を最初に考案したのは聖徳太子であると考えます。裏目の√2倍の目盛付は、西洋数学と支那算法を用いて規矩術を考え出した、平内家十代目の大隅廷臣でないかと思います。支那算法にも、古い昔から西洋のピタゴラスの定理のようなものが考えだされていたのでないのでしょうか。規矩術はコンパスを使って作図します。中国の「武梁氏石室画像石」に見られる図の中で女媧が右手に高く持っているのはコンパスですから、その昔すでに中国では規矩術のようなものが考え出されていたのではないかと想像しているのです。我が国の指金の裏目は平安時代すでに目盛付がされていたという説がありますが、規矩術の幼稚なものがあったのかも知れません。平安時代の裏目説について、私の親方は「昔も今も堂宮建築はすべて建築する建物の縮尺模型を作るから、墨掛けの不明な箇所を拡大して墨金をおおまかに知り得たのでないか」と昔、私に話したことがありました。 魯般尺については前号で説明した通りですが「財、病、離、義、官、却、害、吉」の寸法は、宿曜道と呼ばれるもので、天竺(インド)が起源の天文暦学で、宿曜経を経曲とし、星の運行を人の運命に結び付けて吉凶を占うもので、古く中国に伝わり、仏教と共に我が国に伝えられたもので、平安時代の中期以降に広く行われたものであります。指金の妻手の内目は「丸目」と呼ばれ、円周率3.1416弱で割って得た目盛で、円周の寸法を一目で知ることができます。また「返し目」といって指金の表にも裏にも、重要な目盛部分にあたるところに目盛付けがありますが、これは墨掛けの折、わざわざ指金を裏返しにしなくても良いように、指金作りの職人の心温まる贈り物であると私は思っています。昔の指金には桝を作るのに重要な桝率と呼ばれる6寸4分8厘2毛7糸(ムシヤフナ)の目盛付がありました。大工早割秘伝書の中に、桝法と呼び、桝作り早割法として説明しています。この「ムシヤフナ」の言葉は昔、小学校の先生に教えられたことがあると私の亡き母が言ったことがあります。 私が大工の年期奉公の頃、家の墨掛けが少し出来るようになった時のことです。親方が「かね2枚と、かね4枚の穴をし付けろ」と言ったのですが意味がわからず思案顔をしている私に兄弟子が「1寸、2寸の穴だ」と小声で言ってくれて、ハッと指金の巾が5分であることを思いだしたのです。昔の大工は「かね1枚とか、かね2枚」という言葉を良く使っていたのでした。しかし私が現在持っている真鍮製の古い指金は巾が4分です。小形ですが、大西という古老の棟梁から昔ゆずり受けたものなので建築に使っていたものと思われます。 『江戸東京大工道具職人』という著書を冬青社から発行した松永ゆか子さんが、私の仕事場を尋ねて来た時のことです。大工道具の談義が長時間続きました。指金の話が出た時のことです。古い昔から日本の木造建築の主役として、また大工の手として建築文化をささえ発展させた指金を廃止させようとした日本政府の無知な行政に二人は憤慨したのでした。松永さんの話によると知人の堂宮大工浅賀新太郎棟梁は昭和35年、政府が指金の使用を禁止すると言った時、アメリカ軍の司令部のお偉い方々が「日本政府はなぜ指金を廃止するのだろうか、日本の規矩術は世界で一番優れているのになぜメートルにするのだろうか。アメリカでも建築にメートル法を使っていない」と浅賀棟梁は当時その話をアメリカの軍人から聞いたそうです。 聖徳太子が作り出した指金が現在まで受け継がれて来た長い年月の間には数々のエピソードがありました。また謎とされるところも多くありますので、次回も指金の話はつづきます。(削ろう会会報5号 1998.04.07発行)

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