和漢三才図会より その43 玄能の話101 日本の打刃物が良く切れるのは、昔「サムライ」がいたからだという外国の青年がいた。その理由を問い質ただすと「サムライが日本刀を作らせていたからだ」と言ったそうである。しかし、良く考えてみると、たしかにその青年の言う通り、我が国の打刃物鍛冶たちは、あの高度な鍛冶技術を持つ刀匠の流れを汲んでいるのである。その外国の青年は日本の刃物文化を研究しているのだと言う。 明治9年、明治政府が断髪令と廃刀令を全国に公布した。断髪令というのは男性の丁ちょんまげ髷を切り落せという法令であった。私の家の近くに丁髷塚と呼ぶ小さな祠ほこらがある。私が小学生の頃、祖母が「ここには大勢の村人たちの丁髷が埋められているから、ここを通る時には拝むんだよ」と教えられた。しかし、今の自治会の人々は誰も先祖の人たちの丁髷が祀られていることなど知らない。廃刀令とは刀を作ってはいけないし、刀を腰に差して外出してはならないという法令であった。廃刀令によって我が国の各流派を誇っていた刀匠たちは、内心かなりの抵抗はあったが、生活する糧かてを得るため自分の鍛冶技術を生かして刃物鍛冶に転職したのであった。 中でも有名な徳川幕府の御用鍛冶であった八代目の「石堂是一」壽永は明治3年頃から、すでに鉋鍛冶に転職していたといわれる。しかし、日本刀に自分の銘を打っていた壽永は大工が使う鉋などには銘は打てぬといって地金部分に矢羽根の鎚跡を入れ、石堂鉋の商標としたのである。日本刀の切味は試し切によって評価されるが、業わざもの物位列(日本刀の切れ味をランク付けするもの)では「大業物」「良業物」「業物」とある。一番良く切れるのが大業物で、次に良く切れるのが良業物で次が業物である。昭和の正宗と呼ばれる名刀も「業物」さえ付けられないという。八代目の石堂是一の刀は良業物であったといわれるから、かなり切れたのであろう。その刀匠が鍛えた鉋刃が良く切れたのは当然のことである。 昔、弁慶は七つ道具を身に付けていたといわれるが、大工にも七つ道具がある。指金、墨壷、釿、鑿、玄能、鋸、鉋である。しかしその七つ道具の中には刃物でない道具がある。指金、墨壷、玄能である。大工が木材に墨付する大切な道具が指金と墨壷であるが、大工が一日として手離すことが出来ないのが玄能である。 この叩く道具には木槌と鉄鎚とがある。鎌倉時代、1309年に描かれたという「春かすがごんげんけんきえまき日権現験記絵巻」の中に大工が普請場で働く様子が描かれている。釿を片手で操り木材を加工し、墨打をする大工や槍鉋で厚板を加工する者、木材を両刃鑿で二つに割ろうとしている大工が振り上げているのは木槌である。また1311年に描かれた「松崎天神縁起絵巻」にも大工の普請場が描かれ、下では木材を二つ割にしようと振り上げているのは同じく木槌であるが、小屋組の上では棰たるきに釘を打っている大工は釣つりがねがた鐘形の鉄鎚を振り上げている。昔の絵師が書いたものであるから正確な事は言えないが、その当時、鑿を叩く時には木槌を使い、鉄釘や鎹かすがいなどを打つときは鉄鎚を使っていたようである。 平安時代の中期、源みなもとのしたごう順という学者が編纂した漢和辞書である『和わみょうるいじゅしょう名類聚抄』は漢文で書かれているので十分に読みとることが出来ないが、工匠具第百九十二の項に「広雅いわく□かなずちは加奈都知、和名鉄槌也」と説明しているが槌の字が木偏となっているが「鍛冶具第二百の項に鎚(カナズチ)」と仮名を打っている。
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