大工道具に生きる / 香川 量平
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那須野ヶ原の殺生石と曰う」と書いている。この和漢三才図会に書き表している玄能は柄が三尺余りあると説明しているから鍛冶職人や石工職人が使う玄能のことで、大工の玄能は、後々に名付けられたのであろう。 殺生石は栃木県の北、日光国立公園の那須ヶ原の温泉郷にある。扇應山の中腹に位置し、徒歩で登りつめた所にある。硫黄の香が立ち込め、風の無い曇天の日は硫化水素ガスが噴気しているので注意を要するという立て札がある。そして那須町が表示している立て札がある。 「昔、殺生石は白面金毛九尾の狐伝説として知られ、インド、中国、そして日本の三国にまたがる雄大な歴史を背景に、美女や妖怪、宮中人などが登上する怪奇で広大なスケールとして描かれている。また、荒涼たる殺生石の情景は多くの文人たちによって数多くの文学作品として紹介され、全国的に知られる史跡の一つとなっている。話は平安時代、第七十四代の鳥羽天皇の御代、インド、中国を荒し廻った九尾の狐は、やがて日本に渡来して『玉藻の前』という美女に化身して、帝の寵愛を受けるようになった。帝の命を奪い、日本を我がものにしようとした玉藻の前は陰陽師の安部泰成によって、その正体を見破られ、白面金毛九尾の狐の姿となって那須野ヶ原に逃げ込んだのである。それを知った朝廷は上總介広常、三浦介義純の両名に命じて、九尾の狐を退治させたのであるが、狐は死して巨石と化し、その怨念は毒気となって近ずく人や家畜や鳥獣をも殺し続けたのである。室町時代になって、これを伝え聞いた名僧、源翁和尚はこの地を訪ね石に済度、教化を授け持っていた杖で一喝すると石は三つに割れて、一つは会津へ、もう一つは備後へと飛んで行き、残った一つがこの殺生石であると伝えられている。殺生石は室町時代の『下学集』に初めて登場し、その後、謡曲に殺生石が書かれ、江戸時代には歌舞伎の演劇の題材として上演され、日本国中に知られるように木の打割製材102その頃の文字は木工具には木偏を使い鍛冶具には金偏を使って使い分けしていたのであろうか『江戸萬物事典』では槌という文字を「つい」と呼び、槌は物を打つものであり、柊しゅうき揆とは「さいずち」のことで□あいずち撃とは「かけや」のことであると説明している。 大工道具の中で一番良く使うのが玄能であるが、この道具の語源は、昔、偉い禅僧であった源翁和尚が那須野ヶ原で殺生石を打ち碎いたことにより、この和尚の名が付けられているという伝説であるが、昔の学者たちが、その伝説話を後世に伝えるべく上手に書き表している。徳川綱吉の時代、京都に黒川道祐という学者が『雍ようしゅうふし州府志』という著書を十巻十冊書き著した。その第七巻の中に「洞家の僧、玄翁和尚が呪を誦し、大なる鉄鎚を以て其の石を砕く。然して後、怪止む。世に石破り玄翁と称す。茲これに自り石工、大鉄鎚を謂ひて、直に玄翁と曰ふ」と漢文で書いている。また、図入風俗事典である『人じんりんくんもうずい倫訓蒙図彙』は七巻七冊で蒔絵師、源三郎画で元禄3年(1690年)に書き表されている。その第三巻の中に「昔、下野国、那須野原の殺生石を玄能禅師、一句をしめし持念あれば、悪霊、石を分て出しより、石割を玄能と号す」と書いている。また、1713年に大阪の医者であった寺島良安が『和わかんさんさいずえ漢三才図会』という図説百科辞典を書き表した。その第二十四巻の百工具の項に漢文で「□かなずち」と書き、和名で「加奈都知」、絵図には大 と源翁が書かれている。「廣雅に云く、 は鉄鎚也、按ずるに鉄鎚は釘を打つ鎚なり数種あり、杮こけらぶき葺は竹釘を打つ、 は生鉄を以て之を作る。銅器を作る人が用いる は頭に鋼を加えて之を作る。大 は鍛冶の家が之を用いる。大きさは柊しゅうき揆のごとく、その柄、長さ三尺余、源翁の大きさは枕のごとく、之を以て、鉄石を破く。昔、禅僧源翁と云う者有り、偶たま、偶たま、野州那須野に行きて、呪まじないして殺生石を破く。而して後、俗に石を破く を称し源翁

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