大工道具に生きる / 香川 量平
104/160

鉄の錐(倉敷考古館蔵)104 その44  錐の話 我が国の古い昔、紀元前の頃、私たちの先祖が北は北海道から南は沖縄までの各地で村を作り、集団で暮していたという時代が存在していた。そして、各地の遺跡から出土した土器の表面に縄をころがした様な紋様があるところから、それらの土器を「縄文土器」と名付け、その土地に暮していた人々を縄文人と呼び、その時代を縄文時代と言った。私が小学校の歴史で習った縄文人は、足が短く、手は長く、髭が長く伸び、動物の毛皮をまとい、裸足で弓矢を持って野山を駆け巡り、木の実や草の根を食べ、海辺では貝を取って生活していたと習った。 しかし、観音寺市出身の考古学者である小山修三氏の話によると、縄文人は高度な縄文文化を持ち、栄養バランスのとれた食生活をして暮し、アクセサリーで飾り立て、派手好みであったのだろうと言う。縄文時代の中期、青森県の三内丸山遺跡は江戸時代から知られていたが、1992年に県が野球場を作る計画を立て、整地と測量を行っていると次々と遺跡が発見され、野球場は中止となり、遺跡は永久保存となった。そして「北の谷」という湿地帯から縄文人の生活用具が数多く出土した。具体的には鹿骨製の釣り針、銛、縫い針、真っ赤に塗った漆器、船の櫂、ポシェット(小さなバッグ)、アンギン(編物)など。また、「盛り土遺跡」からは大量の土器、土偶、石器、ヒスイ玉や琥珀、ペンダント、ネックレス、蔓製の腕輪、手甲、脚絆、鹿皮の衣服、装飾をかねたアップリケなど、すべてが5000年も昔のもので腐敗したものも数多くあったことだろう。昔、小学校で教えられた縄文人とはまったく異った生活様式に驚いた。また考古学者たちが更に驚いたのは石鏃(石のヤジリ)や釣り針の接点を天然のアスファルトを使って接着していることであった。そして1994年に長方形に並ぶ六個の柱根が発見された。そして柱根に残る根株はクリ材で直径が1mもあり、その発見により、この遺跡は一躍有名となり、全国に知れ渡った。 また、柱の間隔が4.2mで、一尺を35㎝とすると12尺となる。その当時、すでに尺度なるものが存在していたのである。そのものさしを「縄文尺」と呼んでいる。現在、その近くにロシアから直径1mのクリ材6本を輸入し、地上15mの大型掘立柱の建造物を復元している。(88ページ参照) 三内丸山遺跡で更に驚くのが出土したヒスイの大玉である。直径が5.5㎝から6.5㎝で中央部に糸を通す穴が見事に貫通している。考古学者の藤田富士夫氏は新潟県の青海町の寺地遺跡や、長者ヶ原(糸魚川市)の遺跡からヒスイを加工した工房跡が発見され、工房跡には硬玉製の大玉の加工が認められ、拳大のヒスイの原石や加工に生じる剥石が出土し、穿孔用の特殊な「石錐」が発見されている。三内丸山遺跡から出土したヒスイの大玉は、このような専門の工房で製作されたものであろう。 また、志村史夫氏の『古代日本の超技術』の著書には、ヒスイの大玉には現代にも通じる、あるいは現代の技術をも上回る超高度の穿孔(孔あけ)の技術が見出される。硬玉の穿孔は容易なことではなく、他の遺跡から発掘されたヒスイ玉のどれを見ても実に見事に孔があけられている。 鉱物に孔をあける基本的な技術として、(1)叩いて孔をあけるボーリング法、(2)抉り法、(3)錐を使った回転法(ドリル法)があるが、錐を使った回転法がもっとも有力である。幸い、縄文人の穿孔法を推測する上で決定的な証拠が発掘されている。それは穿孔途中で放棄したと思われるヒスイ片である。その孔の底に小さな突起が残っている。それは管錐(パイプ錐)を使って穿孔した確かな証拠である。管錐に用いられたのは竹(簾竹)か鳥の骨である管骨と思われる。それらを弓錐か舞錐の先端に取付けて回転させ、水を注ぎながら珪砂(石英)や蛇紋石やヒスイの粉末を加えながら押し進め穿孔して行く方法を「回転管錐穿孔法」であると志村氏は述べている。その穿孔技術は後の装

元のページ  ../index.html#104

このブックを見る