サッカラー墳墓(エジプト)の壁画の弓錐中国人が使う弓錐105身具である勾玉や管玉の穿孔に大変に役立ったことであろう。 福井県の鳥浜貝塚は縄文時代の前期の遺跡であるが、その貝塚の中から舞錐らしき遺物が出土している。その当時すでに舞錐が使用されていたのであろう。縄文人が弓錐や舞錐を考え出したのには火種を作り出すのに両手を使って、火ひきり鑽の棒を廻すのは大変な重労働であるため、それを解消しようと弓錐や舞錐を作り出す発想に繋がっていると思う。これらの道具は東西を問わず、ヨーロッパや中国でも古い昔から使われていた。また、エジプトのサッカラー墳墓の壁画に弓ドリル(弓錐)を使っている絵図がある。我が国の伊勢神宮では今も神様にお供えする食事を作るのに毎朝「火起しの儀」が行われいる。その儀式には舞錐を使って火を起し、食事を作るのであるが、古代から一日として休むことなく、その儀式が今も行われている。また、島根県の熊野神社でも元旦の早朝、伊勢神宮と同様「火起しの儀」が行われ、その火種は出雲大社へと移されるのである。 1637年に中国の明代に刊行された産業技術書である『天てんこうかいぶつ工開物』という著書に錐の話が書かれている。「錐は熟鉄を鍛練してつくり、鋼を混ぜない。書物などを綴じるには〈円えんさん鑽〉を用い、皮革に穴をあけるには〈扁へんさん鑽〉を使う。木工が紐を廻して穴をあけ、釘を打って木を合せる場合には〈蛇じゃとうさん頭鑽〉を用いる。その形は先から二分ばかり上のところが一面が切れ込んで、その縁に二つの刃ができており、紐で廻しやすいようにしてある。銅板に穴をあけるには〈鶏けいしんさん心鑽〉を用いる。錐の全体に三つの刃のあるものを〈旋せんさん鑽〉といい、全体が四角で尖端が鋭いものを〈打とうさん鑽〉という。注釈には鑽とは〈きり〉の意であり、〈蛇頭鑽〉とは舞錐の一種である」と説明しているが、意味の不明な錐がある。 『江戸萬物事典』では錐のことを「すい」と呼び、円錐と方錐とがあり、円錐のことを突き通すといい、方錐のことを四方錐という。錐のことを鑽さんとも呼び、物に穴をあける錐をいう。鑽には「とうしきり」と「三つ目きり」とがあると説明している。『和名類聚抄』の工匠具の項には錑もじりを和名で「毛遅鑽」なりと説明し、刻こくろうぐ鏤具の項では錐を和名で「岐きり利」と読ませている。法隆寺の蔵本である『禺子見記』では「錑もじり」を阿弥陀如来の化身であるとし、「モジキリ。木材に円孔をあける錐。軸を長くして上端にT字型に挿して廻しながら押して用いる。軸が螺旋状になったものを〈南蛮錐〉という。」と説明している。また、『和漢三才図会』では絵図に圓錐、方錐、三稜錐、三又錐、壷錐と書き、和名「岐利」と書き、錑もじりを和名で「毛遅鑽」と書き、「南蛮錐」と説明している。また舞錐の絵図をのせて「未まいぎり比岐里」としている。 竹中大工道具館の錐の解説によると、手揉み錐は、日本に従来からある錐の形で、柄を両手で挟み交互に摺り合せながら刃先を部材に押しつけて穴をあける。(1)三つ目錐、釘穴をあける時に使用する。(2)四方錐、木釘や竹釘穴をあける時に使用する。(3)壷錐、埋木穴や太枘穴をあける時に使用する。(4)ネズミ歯錐、竹などに穴をあける時に使用する。その他の錐には「ハンドル錐」「くり子錐」「ボールト錐」「打込錐」
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