大工道具に生きる / 香川 量平
107/160

右上に尺杖を持つ棟梁(春日権現験記より) その45  大工の板図面と尺杖の話107 私たち日本人は、個々に苗みょうじ字と名前を持ち、家々には先祖代々伝えられた「家紋」がある。苗字は明治8年、政府は近代国家の建設を急ぎ、苗字を持てなかった農民や町人に苗字を急遽つけさせ、農民たちは大慌てして自分の苗字を付けたのであるが、そのどさくさに付けた苗字が、現代の変り苗字でないのかという説がある。その変り苗字の中に「一」とか「左衛門三郎」という五文字のものがある。苗字は全国で約14万程あるといわれているが、全国で苗字の多い順に30位迄を調べてみると、第一位が佐藤で、鈴木、高橋、田中、渡辺、伊藤、小林、中村、山本、加藤、吉田、山田、斉藤、佐々木、山口、松本、木村、井上、清水、林、阿部、山崎、池田、中島、森、石川、橋本、小川、石井、長谷川であるが、苗字には古い昔からの由来や数々の由緒がある。我が国の苗字には二文字が多数を占めるが、韓国や中国では一文字の苗字が多い。 『中国姓氏考』の書籍によると「天地開闢のとき、天帝は天地を定める際に多くの小人を造り、天空から撒いた。そして、石の上に落ちたものは石姓、葉の上に落ちたものは葉姓、花木の茂みの中に落ちたものは花姓、河に落ちたものは河姓となった」という古い伝説が中国にはあるという。また、宮内則雄氏は「日本人の苗字の起源は弥生時代に韓国から渡来した人々が、祖国の地名や種族名、職能集団名を古代朝鮮語や大和ことばにあてて、あだ名で呼んで私称したことに始まり、それが苗字の起源である」と述べている。また、私たちの名前は、子供が産れ落ちると親はその子が元気で丈夫に育ち、大人になったら世の為、人の為に役立つ人間になってほしいと、いろいろな望みや願を込めて名付けてくれたものである。「満ち来る潮ともろ共に」という言葉があるが、子供が生れて来る時も、大工が建前の折に家の棟木を納めるのも、この満ち潮の時である。 古い昔から家々に伝えられている家紋は千年の歴史を有し、歴代の幕府は一般庶民に苗字と帯刀を許さなかったが、家紋の使用は認めていたので、我が国の家紋は世界に類を見ない勝れたデザインを生み出したのである。西洋にも紋章はあるが、西洋人の誰もが日本の家紋の美しさと見事さに驚くという。我が国の皇室の紋章は「菊紋」と「桐紋」で、一般庶民の使用は禁止されているが、昔、足利尊氏は後醍醐天皇より「五・七の桐紋」を頂いているし、豊臣秀吉も朝廷より桐紋を賜っている。徳川家康も後陽成天皇より桐紋を下賜されると伝えられたが辞退したといわれる。徳川家の家紋である「葵の紋」は徳川300年の歴史を持つ中で、日本全土の人々をこの紋が平伏させていたのであるが、明治の御一新により事態は逆転し、「菊は栄えて葵は枯れる」と唄われ、葵紋はその権威の座から転落した。 家紋は建物の守護神として戦国時代から築城や改築に家紋の入った唐草瓦に使用されている。また一般の庶民や社寺建築にも家紋の入った唐草瓦が使われている。四国地方では今も新築した家の棟鬼の中央部に金色を施した家紋瓦を取付けるのは家を守護する為だという言い伝えがある。また、墓石や花筒に家紋を彫り付けるようになったのは徳川時代に入ってからといわれる。女性専用の「女紋」がある。母方の家紋を代々受け継ぐという形で、江戸時代に一般庶民の間で定着した。しかし、近年、家紋を知らぬ若者が多いと聞くが、自分が生れ育った家の家紋は知っていてもらいたいものである。 長い前語りとなったが、大工が家を建てるとなると、一番に大切なのが建てる家の平面図を書いた「板図面」であり、二番目に大切なのが小屋伏図を書いた「板図面」である。この板図面のことを四国では「手板」とも図板とも呼んでいる。三番目に大切なのが「尺しゃくづえ杖」であるが「間けんざお竿」とも呼んでいる。この3つを大工は墨掛の間、手離すことはできない。そして、その3点と大工棟梁の智慧と技量である。 その2枚の板図面は大工独特のもので縮尺30分の1で書き込んでいる。そして、その板図面の番付には、いろは48文字を使う。この番付方法を昔から「いろは組合せ番付」と呼んでいる。また、昔は片隅からジグザグに蛇行しながら記号を付していく「時じこう香番付」と呼ぶものがあり、一定の方向から渦巻状に廻って記号を付していく「廻り番付」と呼ぶものもあった。古

元のページ  ../index.html#107

このブックを見る