大工道具に生きる / 香川 量平
11/160

永六輔氏と著者(指金を持つ)  その4  指金の話(4)11 「削ろう会」の皆さん、暑くなってまいりましたがお元気で頑張っていることと存じます。まず、奈良で永六輔さんにお会いした時の話をお聞き下さい。 4月20日、奈良市の音声館で、永六輔さんの「ならまち講演会」が開かれた時に、松田豐さんの紹介で永六輔さんにお会いすることができました。そのおりに私の親方の遺言であった、指金の存続を守っていただき感謝していた話を申し上げ、親方にかわって厚くお礼を申し上げました。 昭和35年に「指金」と「鯨尺」を禁止する、という法令が時の政府から出されたのでした。日本中の木工職人や特に大工は大変に困り、行く先々が真っ暗闇となってしまいました。その時、その法令に猛反対したのが永六輔さんでした。通産省の役人たちも、日本建築とは切っても切れない「指金」が必要であり、我が国の「着かさね文化」には「鯨尺」が無くてはならないことを知ったのか、その後に「指金と鯨尺」は使っても良いという通達が出たのでした。それを知った私の親方は右手に指金を固く握りしめ「永六輔さんのおかげだ、永さんは指金を残してくれた神様だ」と、子供のように小躍りして喜んだ光景が今も脳裏に深く焼き付いています。親方は「もしお前が永六輔さんに会うことがあれば、昔からの日本の建築文化を築き上げてきた指金を守ってくれたお礼を言ってくれ」と私に言い残して、この世を去ってしまったのでした。私の昔話に永さんも「皆さんのお役に立つことができて嬉しい」と喜ばれました。 松田豐さんが「削ろう会」をよろしくお願いします  と申し上げたら「大変興味を持っております。皆さんが削った鉋屑は家の中に飾っております。鉋屑でなくて『削り華』と呼ぶのですよね。杉村棟梁や直井棟梁、また削ろう会の皆々様によろしくお伝え下さい」と言われました。 大工の三宝の一つである指金は、昔から仏様である普ふげんぼさつ賢菩薩の化身であると言われてきました。文もんじゅぼさつ殊菩薩とならんで、お釈迦様の脇仏として右側に控えているのが普賢菩薩です。 それぞれの大工道具が仏様の化身であると昔から伝えられているのは、大工道具が大変に貴重な存在だったからです。私の親方は「職人や弟子たちに貴重な道具を大切に取扱わせるため、仏様の化身であると昔から伝えられているのだ」とよく言っておりました。実際には江戸時代の幕府作事方棟梁であった平正隆が書き表したとされる『愚ぐしけんき子見記』の奥書に、大工道具が仏様の化身であると書かれていますが、最初この本の原本を作ったのが、お坊さんの「春しゅんげんしょう巌昌椿」であったのですから、大工道具と仏様が結びついているのかもしれません。しかし親方が言っていた道具を大切に取り扱せる心がけを弟子の間に養せたのが本当なのかも知れません。仏様の化身である大工道具を取り落としたり、跨いだりすることは今も固く禁じられているのです。 昭和59年、奈良国立博物館の第36回の正倉院展に北倉から「紅こうげばちるじゃく牙揆鏤尺」の2枚の直尺が出展されていました。象牙を紅色に染めているのを紅牙、紺色に染めたのが緑牙で、表と裏には唐花文と蓮花が見事に揆ばちる鏤されていて、長が現在の寸法で約9寸8分、巾が約8分、厚みが約3分あり美しい象牙を染めた儀尺でした。 昔、唐の時代、毎年、王族や大臣にこの儀尺が下賜されていた儀式用のものさしでありましたが、当時の遣唐使や留学僧、帰化僧が、我が国に持ってきたものであろうと説明されていました。 平成元年の第41回の正倉院展では中倉から「斑はんさいじゃく犀尺」と「斑はんさいこじゃく犀小尺」が出展されていました。共に犀の角で作られたのもで、1寸目、5分目、1分目が彫られている直尺のものさしで、長が約九寸七分ある見事なものでした。斑犀小尺は腰飾りであったと説明されていて長が約2寸あり上部の穴に紐が 通されていて、奈良時代の貴族が唐の官史の風にならって腰飾りとして使ったものであり、この直尺は唐の時代の大尺と呼ばれるもので、現在使っている指金の1尺にほぼ近い寸法であるため、指金の尺、寸はこれらの直尺が基準の寸法になったのではないかと感じさせられ牙揆鏤尺と緑りょくげばちるじゃく

元のページ  ../index.html#11

このブックを見る