二代目善作ノミ 徳弘の銘(江戸棟梁所蔵)110 その46 名工の鑿鍛冶「善作」の話 日本の大工が使っている、すべての打刃物が良く切れるのは古い昔から日本刀を鍛えていた刀匠たちの鍛冶技術が今も生かされているからである。明治の終り頃から大正、昭和にかけて関西一円を風靡し、大工たちを虜にした鑿鍛冶「善作」一門が大阪にいた。卓越した技量を持ち、見事な成形と使い手に対して温かい配慮の心を持ち合せ、砥石おろしが楽で、良く切らし、低価格が当時の大工たちにとって人気の理由であった。今も三代目善作を幻の鑿鍛冶と呼び、関西の若い大工たちに人気がある。しかし、名工善作一家の過去を知る人は少なくなっている。幸い、神戸の竹中大工道具館に善作一門の資料が残っていた。 初代の善作は、本名を松原喜次郎と呼び、兵庫県三木市の出身で、早くから大阪に出て、西区の江戸堀に住み、その後、港区市岡元町一丁目の交番所の前に鍛冶場を構えて仕事をしていたが、その作品は、ほとんど残っておらず、大正10年に72歳で他界している。戦時中、アメリカ空軍の爆撃によって市岡元町は焦土と化したが、今も地名と番地は昔のまま残っている。初代善作の孫にあたる小島晴惠さんの話によると、その当時、ポンプを考案して大阪で開催された第五回内国勧業博覧会に出展し、後の大正天皇よりお誉めのお言葉を戴いたという逸話が残っている。打刃物は良く切らす程、短命と昔から言われているが、初代善作の作品が見当らないのは、その為でないのかと言う人が多い。 初代善作には二人の子供がいた。長男を徳太郎と呼び、次男を重じゅうじろう次郎と呼んだ。二つ違いの兄弟は幼い頃から鍛冶場で、父の手伝いをしながら、厳しい父から鍛冶技術を習得した。父の死後、長男の徳太郎が二代目善作を継いだ。彼は見事な作品を多く作り出し、また「木目玄能」を考案し、関西の大工連中に好評で、特に穴屋と呼ぶ穴掘り専門の大工に良く売れたと長女の小島晴惠さんは言っている。そして釘抜き、鉋、作しゃくり里など約100種類以上の大工道具を幅広く手がけていた。仕事には大変厳しく鍛冶場には誰も近づけなかった。作品には人の勧めにより「徳弘」と刻印を打つこともあった。 淡路市に江戸保という大工の棟梁がいる。父の榮一郎氏が若い頃、大阪の市岡に住み大工仕事をしていたが、近くに善作の鍛冶場があり、折れず曲らずという叩き鑿3本を別注した。「善作」の刻印を打つのか「徳弘」と打つのかと聞かれたので「徳弘」だと返事した。刃先の中央部は「とつこ」と関西では呼ぶ。角鋼が中央に入り、刃の両側面は「かすがい」があり、これを山形鍛えだと呼ぶのだそうだ。見事に仕上った3本の鑿を手にした榮一郎氏が二代目善作に向って「先祖は刀匠か」と言ったら頷いたという。 二代目善作は十年程しか鍛冶仕事はせず、昔の大阪鉄工の会社に勤めた。善作の長男、松原善治は、父が鍛えた作品の仕上を専門に行っていたが、父が鍛冶の仕事を止めたので、自分も仕事をせず、父の後は継がなかった。 昭和4年か5年頃に二代目善作が鍛えた1寸8分の「突き鑿」が『道具曼陀羅』に掲載されている。著者の故村松貞次郎氏は「不気味なほど静まり返ってまとまっている。よほど鋭い神経で気力を込めて鍛えたものに違いない。まったく破綻がない、そして誠に氷のような刃金、重ね鍛えの地金柾目、妖気が漂う」と彼の技量を誉めている。高知県出身の宮大工、野村貞夫棟梁が二代目善作に鍛えさせた作品で、棟梁の遺品。
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