大工道具に生きる / 香川 量平
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左から直井棟梁、野村俊信氏、著者111表面には本の字が入った小さな角の刻印と、長方形の枠の中に善作の刻印があり、その下には「珥加里野村」という鏨たがねぼりがある。「珥にっかり加里」の意味について、ある人は豊臣秀吉の愛刀「にっかり貞次」の伝説話を書き添えている。備前の鍛冶の作で、ある武士が夜道で妖怪変化に遭った。その妖怪が、にったりと笑いかけると、抜く手も見せず、その首をはねた。翌朝その場に行くと首を切られた石地蔵が立っていたという。故野村棟梁も、にっこり笑う妖怪にあやかって名付けたのか、にっかり貞次の名刀にあやかってか不明である。その名刀の脇差が香川県の丸亀市立博物館に「にっかり青江」として展示され、ここでも幽霊を斬ったという伝説話が伝えられている。昔、近江国の某武士が夜道で、にっかり笑う美人の幽霊に遭遇して抜き打ちに首を斬って飛ばしたので妖刀と呼ばれ、一躍有名となり、柴田勝家、丹羽長秀、豊臣秀吉と受け継がれ、豊臣秀頼より京極高次に渡り、浅井三姉妹のお初の京極家に伝えられたものである。 二代目善作の徳太郎が鍛冶仕事を止めたので、次男の重次郎が三代目善作を継いだ。兄に劣らぬ勝れた鍛冶技術を持ち、関西の大工たちが天才鍛冶と呼んだ。竹中大工道具館に三代目善作が鍛えた鑿がある。墨流しの木目地金鍛えで、柄首のところで一回ほど捩っている。この鍛えを鍛冶たちは捩れ木目打ちと呼ぶ。この寸6の追入鑿の見事な鍛えは、彼の優れた技量を知ることができる作品である。銘はなく、宮大工、故野村貞夫棟梁の遺品。 墨流しという鍛冶の技法を新潟県与板の鑿鍛冶の名工三代目舟弘(本名船津祐司)氏に聞くと「墨流しとは硬い地金と軟らかい地金を鍛え合せて鋼を付けて作品を作り上げ、希硫酸につけて置くと、美しい木目の墨流しの地肌が現われるのだ」と言う。また柄首の捩れ木目打ちの鑿は野やだいく大工の使用には無理があると三木市の鑿鍛冶の名工高田良作氏は言う。私も、この墨流し捩れ木目鍛えの鑿に魅力があり、三木市の鑿鍛冶、故五百蔵幸三氏に鍛えてもらったが、松の大節に行き当り、玄能で軽く叩いたつもりだが捩れ部分のところから「ポキリ」と折れてしまった。その旨を通達すると、新しく同様の鑿を作ってきたが、高田良作氏の言う通り、野大工には不適であることを痛感した。しかし、この鑿を外国人が見て絶賛し、土産に買い求めると言う。 戦前、三代目善作が大阪の市岡で鍛冶仕事をしていた頃、富山県東砺波郡福野町広安から、野村俊信氏が堺市のハサミ鍛冶の紹介で18歳の時、見習に入った。善作は極意を盗まれる事を恐れ、見習は三年間で修了させていたが野村氏は5年間いたという。その後、郷里に帰り、父の鍛冶仕事を手伝いながら、大工や建具職人用の鑿を鍛えていたが、いつか師匠のような木目鑿を鍛えたいと考えていた。昭和52年、井波彫刻の職人から師匠の鑿を見せてもらったのがきっかけで木目鑿の製作を始め、20本か30本に一本しか満足のいく作品が作れず苦労したが、屈せず、一年がかりで仕上げた「墨流し薄差ノミ」と和鉄作りの小玄能の2点を竹中大工道具館に寄贈している。また、この薄差ノミは「砺波の鑿」として『道具曼陀羅』に野村俊信氏と共に紹介されている。銘は俊信。 平成24年8月、福井の直井光男棟梁の案内で、野村俊信氏を訪ねた。96歳で夫婦共に健在であった。三代目善作の刻印や資料などはなく、昔話を聞き、見習でいた大阪の住所を聞くことができた。幸い「墨流しの捩れ木目打ち」の薄差ノミ九本と切出しが2丁残されていた。その作品を手にした時、非常に硬い鑿に

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