大工道具に生きる / 香川 量平
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野村俊信作 薄差ノミ112仕上っている印象を受けた。直井棟梁も、この薄差ノミを一丁持っているが大変に研ぎづらいと言っている。竹中大工道具館に展示されている三代目善作が鍛えた名品の追入鑿も、故野村貞夫棟梁が大変に研ぎづらいと言ったそうである。 昭和18年、アメリカ空軍の爆撃が激化し、三代目善作は妻子を連れて、大阪の市岡から奈良県奈良市都つげはやま祁吐山町の田舎に疎開した。そして農家の納屋を借り、昼間は炭を真赤におこして鍛冶仕事に励み、夜は納屋の土間に筵むしろを敷いて寝た。しばらくして、その生活に見切をつけた妻子は大阪に帰って行ったが、善作は自作の刃物で食糧やお金と交換しながら苦しい生活を続けた。今も吐山で農業を営む、中尾政彦さんの家には、三代目善作が鍛えた作品が残っている。墨流しの中薄の叩き鑿が九本あり、銘はあったり、なかったりするが戦中の鉄材不足の折にしては見事な作品である。また、墨流しの中玄能には、本家善作の刻印と松原家の家紋である蔦の葉の刻印がある。寸四鉋には三代目善作を証明する八角長方形の枠と中に善作の刻印がある。そして毛引が一丁と馬具などの金具もすべて善作が鍛えたものだと言う。また、近所の魚屋には善作が鍛えた出刃包丁が今も使われている。戦後、まもなくして善作は鞴を背負い吐山の田舎を去った。その時、善作の年齢は30歳後半であったと中尾さんは言う。奈良の吐山から帰った善作は戦中に焼け残っていた大阪の大正橋の近くの堀江に一坪ほどの鍛冶場を作り、昭和26年頃まで清重産業に鑿を作って持ち込んでいた。その当時、善作の身なりは、擦り切れ草履に荒縄の帯をしめ、貧素な恰好をしていたと清重産業の当主であった母が言っていたと言う。その後、生駒の瓢箪山に住んでいたとも言われている。また堀田商事の堀田清一氏の調べによると、昭和27年頃に瓢箪山から奈良の榛原の山の中に鍛冶場を構えて鍛冶仕事をしていたが、清重産業との取引で諍いがあったという噂がある。そして昭和28年頃、仕事着の上に荒縄の帯をしめて大阪の町を一人で歩いていたのを一人の大工が見たのを最後に三代目善作の消息は不明となった。関西の善作びいきの大工たちが注文した鑿を鍛えてもらおうと探し廻ったが、ついに消息を知ることができず、大工仲間の間で、幻の善作と呼ばれるようになったのである。しかし名工善作は去っても彼の作品は残り、大工道具愛好者の目を楽しませてくれている。 『続・日本の大工道具職人』の著者、鈴木俊昭氏は大阪の大工道具鍛冶の名工「善作」について、初代善作の作品は見当らないが、二代目善作と三代目善作の見分け方を説明している。善作の刻印を囲む枠の形が二代目善作は四角の長方形であるのに対し、三代目善作の枠の形が八角の長方形である。しかし作品の成形などから総合的に判断する必要があるという。また「登録善作」の刻印がある作品はすべて本元の善作の作品でないと言っている。『道具曼陀羅』に記載されている「一対のキワガンナ」の銘は  で、故野村貞夫棟梁の愛用品で台は自作カンナ刃は善作が鍛えたもので、行方知れずの名工とある。  といえば大阪の大正区にある大正橋の近くの「清重」の大工道具店「清重産業」と判断し、店主に昔の話を聞きに行ったが不明であった。道路の向側が堀江で、昔、善作が住んでいた所である。店主は善作の刻印の入った墨流しの荒打ちの1寸の追入鑿を見せた。また富山市の野村俊信氏が善作四代目を襲名しなかった理由を聞いたが何も語らなかった。二代目善作、本名松原徳太郎、明治22年生で昭和19年没。三代目善作、本名松原重次郎、明治24年生で没は不明。(削ろう会会報64号 2012.12.17発行)

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