棟札について(匠家故実録より) その50 棟札の話123 我が国の神社、仏閣を建立する宮大工の棟梁は、上棟式に棟札を作って、その建物の由緒のほか棟梁銘や建築関係者名と共に家屋を守護する神々や火伏の神を書き付けて、上棟式の祭壇に祀るという伝承が古い昔からある。江戸時代(文化5年)1808年に書かれた『匠しょうかこじろく家故実録』の下巻に棟札の起源は北條時頼が宋の隆蘭渓を棟梁として相州の建長寺を建立した時、時頼が棟札を作り、由緒を書き付けたのが始まりと記されている。 棟札には新築、再建、増築、解体修理、屋根、瓦の葺替などの折に奉納されたものが多い。また、棟札ではなく「棟木銘」と呼ぶものがある。上棟した棟木に直接、由緒や年号を書きつけるもので、飛鳥時代や奈良時代すでに存在していた。しかし、高所で棟木に書き付けるのは危険を伴い大変に手間を要することから、次第に棟札に書くようになったのである。 2002年、横浜市立博物館で「中世の棟札展」があり、全国15県から百七枚の古い棟札が展示されていた。一番古いという棟札は保安3年(1122年)のもので岩手県大長寿院所蔵の中尊寺の経蔵の棟札で、藤原清衡と妻の平氏が納めた棟札であると考えられている。奥州の藤原氏は早くから京都の文化を吸収しており、京の都では棟札なるものがすでに存在していたと説明されていた。 棟札の頭の形は「平頭型」「尖頭型」「円頭型」「家型」などがあるが、平頭型は頭部を直角に切ったものであり、尖頭型は頭部が駒型になったものである。円頭型は櫛のように頭部が丸みをおびている。家型は角の部分に面があるものなどである。古い棟札には、尖頭型(駒型)のものが多い。棟札展では珍しい形の棟札が展示されていた。愛知県信光明寺観音堂の棟札は頭部が禅宗様で「花頭型」と説明があった。石川県伊いやひめ夜比咩神社のものは頭部が「擬宝珠形」と呼ばれるもので、古代の木簡に似た形状のものであった。千葉県観音教寺の棟札は嘉吉2年(1442年)に鍛造した「銅」で造られたもので何度か火災を経たのか熔けた跡がある。銅の棟札は永遠と考えて造られたのだろう、願が叶ったのか、133名の寄進者の名前が今も守り伝えられている。数少ない銅の棟札の例である。 鎌倉時代の中頃を過ぎると棟札に変化が見られるようになり、建物の由緒や記録を目的としていたが、次第に火伏の祈願文が書き付けられるようになったと『讃岐社寺の棟札考』の著者である黒川隆弘氏は述べ、祈願文の内容について説明している。 神社や各宗寺院の棟札に多く見られる祈願文は「聖しょうしゅてんちゅうてん愍衆生者、我がとうこんきょうらい等今敬禮」と書き付けられている。「聖主、天中の天は迦陵頻伽の声にして哀愍したもう者、我等、今、敬礼したてまつる」と読む。この言葉は法華経第七番目の「妙法蓮華経化城喩品第七」に出てくる経文である。「聖主」とは聖と主であり仏のことである。「天中の天」とは天の中の一番上にあるという意味でお釈迦様のことを指す。「迦陵頻伽」はインドの国で最も美しい声を出す鳥とされており、お釈迦様の教えが深く人々の心に浸み渡ることを美しい鳥に喩えたのである。「哀愍衆生者」は衆生を慈しみ哀れむ者、つまりお釈迦様のことである。「我等今敬禮」とは、私達は今、尊敬の念をこめて礼拝させていただきますという意味である。この一連の経文の大意は「偉大なる仏である釈迦牟尼世尊よ。美しい鳥のようなお声で私達に語りかけて下さり私達を思ってくださる貴方に対し、一同の者は尊敬の念をもって礼を尽くし、礼拝致します」との意である。 この経文を棟札に書くのは火災の難から逃れる為であり、お釈迦様の信者であった須達長者が祇園精舎をつくった時、火災の難から逃れる為に、この経文を唱えたとの故事が、日蓮大聖人が残された御遺文の中の「上野殿御書」という御文章に記されている。これに主天中天、迦がりょうびんがしょう陵頻伽聲、哀あいみんしゅうじょうしゃ
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