127ていた。墨液は「削り墨」を寒の水で溶き一年中使った。墨壷の歴史は古く、正倉院の宝物に「銀平脱龍船墨斗」と「紫檀銀絵小墨斗」の2丁がある。また、東大寺の南大門の梁の上で明治12年に発見されたという「尻割れ型」の墨壷は、東京芸大の所蔵となっている。墨壷の形は全国的に見て「関東型」「飛騨型」(一文字型とも呼ぶ)「関西型」の3種類のようである。(2)朱壷(あかつぼ) 中型又は小型で約6寸、造仕事用と記載されている。現在では「しゅつぼ」と呼び、昔と変らない。昔は朱液に「ベンガラ」を使っていたとある。この朱色は第二酸化鉄であるため、絹糸が早く痛み良く切れるので「やままゆ」の絹糸を使う。これは天然繭から採取したもので、大変に粘り強く「天蚕糸」と呼ぶ。今の大工は、ほとんどがナイロン製の糸を使う。墨の銜みは悪いが切れないので好評のようである。(3)墨指 大及び小(各々1)。大の建前仕事用の幅は5分位、小の造作仕事用の幅は4分以下と記載されている。讃岐の大工は墨指には煤竹を使う。幅を4分とし、干支の十二支を3倍とした36枚に末側から割り込む。建前仕事用の墨指は長さを1尺1寸とする。理由は「魯般尺」の「吉」の寸法であり、造作仕事用の朱指は幅を3分5厘とし、36枚に割る。長さを7寸5分とするのは長さが魯般尺の吉寸である「官」の寸法になるからである。また、墨指の頭の部分を二寸五分程そぎ落し先端迄を丸くし筆とするが、その削ぎ落した窪みの所を「太子の座」と呼び、そこに聖徳太子が座して墨掛が間違わないよう見守ってくれているのだと福井の直井光男棟梁は言う。また、墨指の側面に「観世音」と彫り付ける大工がいるが、これも墨掛の間違いを防ぐ為の祈りであろう。(4)曲尺(さしかね) 現在では指金と読み、書いている。指金は今も昔も変らない。最近の大工は面取の指金は好まず、平作りの指金を使う大工が多い。墨掛にペンを使うからである。平作りの指金は、目盛が鮮明で艶消しであるため、ギラギラせず、持ちやすく使い勝手が良いので大工連中に好評のようである。大工の三宝の一つである指金にも、暗い過去がある。昭和34年のことである。尺貫法が廃止され、メートル法に法律が改正され、指金の製造と使用が禁止されたのである。この法令は政府が昔から予告はしていたのだが全国の大工は大慌てした。これは悪法であると永六輔氏や故、西岡常一棟梁、各建築組合が政府に反対運動を起したのである。指金(二)鋸 第一形式として12種類を記載し、縦挽鋸を「ががり」、横挽鋸を「のこぎり」と呼んでいる。「鼻丸のこぎり」とは今の穴挽きのことであり「前挽き」などは今の大工は持たない。両歯鋸の9寸、8寸は今も持つが、電動丸鋸、換歯式鋸などの進出によって鋸は非常に変化している。(三)鑿 第一形式で49丁と多いが現在では電動穴掘機の進出で、建前仕事用の叩き鑿が一組の9丁程と造作仕事用の追入鑿一組の9本組がすこし使用されているのみである。(四)鉋 第一形式では40丁となっているが「中しこ」と「仕上鉋」は昔と変らず、「鬼荒しこ」などは電気カンナによって姿を消している。報告書には鉋の種類を2通りとし、一つは普通鉋とそれ以外のすべてを特殊鉋と呼んでいる。普通鉋には一枚鉋と二枚鉋があるが、二枚鉋とは「合せ鉋」とも呼び、裏金(おさえ)の付いた鉋のことであるが、この裏金は明治に入り外国鉋にヒントを得て作ったものだとも、我が国に昔から存在していたとも言われている。昔の鉋に樫の木で作った裏金があったと言う話を昔聞いたことがある。 また、数ある鉋の中で寸八鉋、寸六鉋、寸四鉋についてだが、三木市の黒田文書(安政8年)に職人との鉋の売買契約書に寸八鉋を「広」、寸六鉋を「中幅」、寸四鉋を「せば」と記されているという。また、これらの穂幅の呼び名について、現在の寸八鉋の穂幅は約2寸3分5厘、寸六鉋は約2寸2分、寸四鉋は約1寸8分であるが、なぜ各々寸八・寸六・寸四と呼ぶのか。呼び名と穂幅の違いについて、報告書は鯨尺と述べているが、復刻版の監修者である村松貞次郎先生は、曲が売場から消え去った頃、センチ指金の25cmを一尺として規矩術の墨出しができる「砂古式」という指金が売り出されたが、墨出しに時間がかかり間違いやすいので大工は誰も相手にしなかった。そして、7年後、政府は悪法であったことを認め、指金の製造と使用を許可したのである。その当時の大工たちの喜びの声は今も忘れることが出来ない。(5)巻曲尺(まきがね)、(6)定規、(7)合せ定規、(8)白糸巻、(9)水平器、(10)留型定規、(11)箱型定規 昔も今も変らない。
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