大工道具に生きる / 香川 量平
128/160

左より、荒突鉋、大阪作里鉋、脇取鉋(右と左)128尺という説のあり一定しないと述べている。しかし昔の鉋の穂幅は約1分5厘ほど小さかったので、それを鯨尺(裁縫尺)で測ると、正確ではないが約1寸8分、1寸6分、1寸4分となる。この3種類以外の鉋は穂幅の寸法通りの呼び名となっている。また、木を削っている時、鉋の刃先が木材との摩擦によってどの程度の温度に上昇するのかも不明である。 報告書には、鉋台は樫の木で作り、6丁取りの鉋台を良しとすると書かれている。鉋台は良く乾燥した目の込んだ白樫、赤樫、柊、橙、「ななかまど」などがある。この木は7回も「かまど」で焚いても燃えない木であることから鉋台には最適と昔からいわれている。また、「けじりん」と言う言葉が鉋の研ぎに使われるが、この呼び名は寛永4年、吉田光由の著書『塵劫記』の中に書かれている小数の「分、厘、毛、糸、忽」の中の「毛、糸、厘」の文字を読んだものである。昔、押鉋や大鋸が我が国に伝えられたのは14、5世紀頃といわれているが、これは瀬戸内の倭わこう冦なるものが、外国から分捕って持ち帰ったのでないのかと言う説がある。また、我が国に伝えられた押鉋が現在のように引き式の鉋に、いつ頃から変化して行ったのか、など鉋に関しての疑問点はまだ多くある。 報告書に記載されている第一形式の特殊鉋については「長台鉋」の他に数多くの鉋があるが今も俗家大工は使用している。 鉋の項の(19)「荒突鉋」、(20)「底取鉋」、(21)「脇取鉋」の右と左の四丁の鉋を溝道具一式と呼ぶ。基市作里鉋が普及する迄この道具が使用されていた。 基市作里鉋は大工が発明し製作したもので、大工の名前が道具名となっている。大正12年9月、関東大震災により、東京は壊滅的な打撃を受けたが翌13年には復興の為、全国から大工を募集した。それに加わったのが私の知人であった故、豊田筆一氏であった。豊田氏は建築の現場で神奈川県出身の基市という大工と知り合った。彼は溝突き鉋の改良を考えていて、豊田氏に良く、アイデアを聞き質したという。ある時、豊田氏は「罫引のように大正作里鉋に定規を取り付けてクサビ止としたらどうか」とヒントを与えたら彼は膝を叩き、その後、神奈川県に帰り自分の名前を会社名とし、特許を取り、「基市作里鉋製作所」を設立したという噂をのちに聞いた。溝突という仕事は大工泣かせといわれていたが、この発明によってその苦労は一挙に解決した。彼は大阪作里鉋に定規を取り付け、クサビ一本で移動できるように工夫し、丸源という鍛冶屋に本刃の右と左に脇針と裏金を取り付けて売り出す(五)錐 第一形式では36丁と記載されているが、電気ドリルの普及により、ほとんどが消滅した。(六)玄能・金槌 第一形式では6丁となっているが電動穴掘器と電動釘打機によって、現在は大玄能1丁と小玄能1丁と金槌の大小2丁である。(七)釘抜・釘締(ポンチ)、(八)毛引(罫引) 昔も今も変らない。(九)鉞・釿 松丸太などの上具材が無く、この2丁の道具は幻の道具などと呼ばれている。(十)雑道具 小物道具で今も使っている。と全国の大工に大好評を得たが、昭和30年頃より電動の溝突カンナの進出により、大工が考案した一大発明も姿を消した。 以上が大工道具の標準編成についてであるが、手道具の消滅は日本の建築文化の衰退を意味している。(削ろう会会報69号 2014.03.24発行)

元のページ  ../index.html#128

このブックを見る