大工道具に生きる / 香川 量平
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三内丸山遺跡の「遺構平面図」 その52  木と柱の話129 豊とよあしはらのみずほのくに葦原瑞穂国に生れ育った日本人は、古い昔から樹木の多大な恩恵を受けつつ今日まで「勤勉、質素、節約、忍耐、器用」をはぐくみながら生きてきた民族である。そして、日本人の木には神が宿るものと信じて崇拝する奥深い心が、樹木信仰へとつながっている。 和銅5年(712)太おおのやすま安万侶が『古事記』を書き表した。その上巻で伊いざなぎ邪那岐と伊いざなみ邪那美が国を生み終えて神々を生んだ。その12番目に生まれたのが「久くくのちのかみ久能智神(日本書紀では「句くくのち句迺馳」)」という木の神である。そして、山の神に続いて生まれたのが「鹿かやのひめのかみ屋野比売神」である。 『日本の神々の事典』の中で茂木栄氏は次のように述べている。 また、折口信夫は、(略)「句句迺馳」(紀)は家の木材の神とし、同神に続いて生まれた草の祖草野姫(おやかやのひめ)と『延喜式』祝詞に記載される屋船豊宇気姫命は同じ神で、米と藁などの神として出ているが、家の屋根の葺草をつかさどる神であるとした。 家屋は木を材料としてつくり、葦草で覆う。ゆえに木神と草神を並べて奉り、屋船神として祀ったという(神道大辞典)。また、神名のヤフネの「屋」は「舎」を意味し、「船」は大根(おほね)のことで「ほ」が「ふ」に転じ「お」が省かれたものであるとする鈴木重胤の説などがある。これによれば「屋船」とは舎屋に強い作用を与え、根元で支えるものという意味となる。折口信夫氏が久久能智神を「山川に生えている眺める樹木ではなく、建築用材の木の霊魂を表す」と結論づけた背景を示す見解といえよう。 日本全国に木を植えて回ったとされる神に、須佐之男命の御子神の五十猛神(いたけるのかみ)がおり、和歌山市伊太祁曾神社で祀られている。(引用ここまで) 養老4年(720)舎人親王らによって書かれた『日本書紀』の神代上の第七段の「一書」に素すさのおのみこと戔嗚尊の次のようなエピソードが書かれている。 「我が子の治める国に舟が無ければ韓国に行けない」と言って髭を抜いて植えると「杉」になった。胸毛を抜いて植えると「桧」になった。尻の毛は「槇」になった。眉の毛は「楠」になった。そして、その用途を定めて強く言った。「杉と楠は舟にせよ。桧は美しい宮を作れ。槇は墓に臥す棺にせよ」。 古い神代の時代に素戔嗚尊はすでに木の材質を知り、適材適所に使い分ける能力を持ち合せていたのであろうか。 また、青森県の三内丸山遺跡は今より約5500年前から4000年前の昔、縄文人の多くが長年暮していた遺跡である。1994年、地下2mの所に長方形に並んだ直径が1mを超える栗の木の柱根が発見された。現在、すぐ近くに、ロシアから輸入した直径が1mを超え、高さが18mある栗の柱が6本復元されている。しかし、縄文人は栗の木が湿気に強く、腐敗しにくい材質であることを知っていたのであろうか。また、発見された柱根の外側は腐敗を防ぐため焼いたと見られる形跡があり、炭化の跡があるという説明を聞いた。 我が国には「注しめなわ連縄」を張り巡らした神木や県木が全国各地に残されている。日本人は樹木信仰の念が深く、各地で古木に巡り合う度、神がいる場所と信じて手を合す人々が多くいる。一昨年、旧家の跡地に残る楠の古木の伐採を依頼されたので、山子(樵きこり)に相談すると「斧立て」の行事を行って伐採するので、楠の木に斧を立てかけ、その木に対して御神酒を供えるよう指示を受けた。樵は楠の古木に向って「木もらい」という祝詞を読み上げ、御神酒を木と、その土地にのませ、早速にチェーンソーで、またたく間に伐採してしまった。樵の話によると、古い昔から伐って悪い木であれば、立てかけている斧が自然に倒れるのだと言う。また、「木もらい」の祝詞について聞いてみると「伐採する木と山の神に対して、今よりこの木の第一の生を断つが、その後、建築用材として、第二の生を何百年も生き続けてほしい」と読み上げたのだと言った。

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