大工道具に生きる / 香川 量平
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故西岡常一棟梁の指金13かかってもこの小さな指金に隠されている建築の秘密のすべてを会得することはむつかしいと言ったのは私の親方でした。この驚くべき指金を一体誰が作り出したのでしょうか。 古い昔、中国で発明された指金は韓国を経て、仏教と共に我が国に伝えられたことは皆様も御存じと思います。中国で聞いた話によると、指金は魯般という中国の大工が発明したので、今も魯般は大工の神様であると言うのです。しかし中国、山西省太原市の梁海林さんの説明によると、魯般は、河北省、趙しょうけん県の趙洲橋の近くで生まれ、15才で子夏について学び、その後数々の工芸技術を学び、中国の科学を考えて、奥深い建築の秘密を忍ばせた指金を作り出した、と言うのです。私が「古い昔、震しんたんこく旦国の皇帝である臣しんりろう離婁が式しきしゃく尺を作り、その後、魯般が作り直したと言う伝説があるが本当か」と聞くと「その伝説は本当だろう。二千年あまりの昔、釈迦が月氏国に出現して、首しゅだつちょうじゃ達長者が祇園精舎を建立した時、釈迦が式尺を作り、純じゅんだ陀にこの式尺を伝えたと言う伝説もある」と答えました。 昔、私の親方から聞いた話によると「指金を作ったのは天竺に聖せいてんりんおう転輪王と言う王様で、その王様に4人の王子がいた、3人目の王子を『魔まかびらたいし訶詫羅太子』と呼んだ、今もインドではこの王子が工匠の祖神で大工の神様であり、指金を作り出した神として崇められているのだ」そうです。指金の伝説話はそこ迄とします。 仏教建築と共に我が国に伝えられた指金は聖徳太子によって難波(大阪)の鍛冶職人に伝えられて、中世以来、指金作りの職人衆によってつくられた指金の銘柄を「又四郎尺」と呼び、その尺の長さが現在の指金より1分2厘ほど短かかったようです。どうして「又四郎尺」の名があるのかといえば、その当時、木匠用の指金を作っていた職人の名前なのです。又四郎は、難波指金の開祖でもありました。小泉袈裟勝さんの『単位の歴史辞典』によると、江戸時代に京都で作られていた「念仏尺」は竹製のものさしですが、なぜ「念仏尺」と呼ぶのかについては「念仏尺とは近江の国(滋賀県)の伊吹山より石製の塔婆に表面に尺度が刻まれていたので、その尺度を複写して「念仏尺」と名前は付く」と狩かりたにえきさい谷掖斉の『本ほんちょうどこう朝度攻』という著書に書き表されているのだそうです。この「念仏尺」は現在の尺より4厘ほど長かったようです。 徳川八代将軍吉宗が紀州(和歌山県)の熊野神社にあった古尺をとって江戸の司天台(天文台)の圭表尺として使った。享保年間のことなので、このものさしを「享保尺」と名付けて呼んだと説明しています。しかし、この古尺は紅葉山宝庫と共に火災にあって焼失してしまいましたが、その以前、幕府の書物奉行であった近こんどうせいさい藤正齊という者が、この古尺を模製していたのです。この「享保尺」は現在の尺よりも2厘ほど長かったと説明しています。 その当時には、いろいろな「ものさし」があり尺寸もまちまちでした。その頃徳川幕府は外国の黒船の接近に驚き、日本全土の地図を必要としました。幕府はその地図作成に測量家であった「伊能忠敬」に白羽の矢を立てました。彼は千葉県の商家の出身でしたが、50才で跡目を長男にゆずり、江戸に出て19才も年下の高橋臣時に天文学を学び、自費で各地の測量を行っていました。しかしこの測量に使った尺寸は、伊能忠敬が、難波の「又四郎尺」と「享保尺」を平均して「折衷尺」を作り、この尺寸を使って日本全国の測量に用いたのでした。この「折衷尺」が現在私たちが使っている指金の尺寸であります。その点については、いろいろと問題があるようですが、今のところ「折衷尺」が指金の基準になっています。しかしこの尺寸を定めた伊能忠敬の話はあまり知られておりません。明治になって大蔵省、度量衡改正掛が作ったものとされているからです。「指金の裏の目読めぬは、へぼ大工」という川柳がありますが、この裏目の寸法は、江戸末期の「平へいのうちまさとみ内廷臣」によって作られたものと私は見ています。この「勾殳玄」の法は、日本建築と切っても切れない関係にあります。 指金の起こりは実に古く天竺(インド)とも古代中国とも言われていますが、我が国へは仏教建築と共に伝えられ、のちに数々の改良が加えられて現在に至っています。「八意思兼神」とも「聖徳太子」とも言われていますが、実に見事に日本の指金は作られています。(削ろう会会報7号 1998.11.15発行)

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