大工道具に生きる / 香川 量平
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筵むしろ打うち中継表は、二本の藺草の根元を両端に向けて差し通し、中央部で継ぎあわせ、先端を表面からはみ出させた状態に織り上げたものである。引通表と飛込表は機械織であるが、中継表は機械で織ることが難しく、手織機を使う人が少なくなった現在、贅沢品となっている。17世紀後期の江戸での筵打の作業ぶり。大きな筵バタで打っている。親子だろうか。師弟だろうか。腰掛は使っていない。手伝の子供は片膝たてて横に入れる藁をさしだしている。足元に藁束がある。庶民の家では板の間や土間に敷物として用いた。筵旗は百姓一揆の標識であった。18世紀頃の畳刺(「彩画職人部類」より)(「和国諸職絵尽」より)畳屋の道具133 現在のように中なかご子を使った分厚い畳が作られるようになったのは平安時代、貴族の寝殿造りの部屋で使われ始めたといわれているが、その当時、畳は貴族の中でも身分や階級によって広さ、高さが決められていた。また、畳の縁は錦織をはじめ高麗縁など最高の織物が使われ、模様など色によっても貴族の階級を表していたといわれる。そして、畳はその当時ほんの一部のものしか使えず、畳は一人が座す座具であり、寝具でもあった訳だ。鎌倉時代から室町時代にかけて完成した書院造りの建物が普及し、商品化した畳は、部屋全体に敷かれ、桃山時代から江戸中期の頃より、一般庶民に広く普及し、明治時代になり、農村でも畳が敷かれるようになったのである。 畳を作る職人を現在、畳屋と呼んでいるが昔は「畳大工」「畳刺」「畳師」などと呼んでいた。畳屋は屋内で仕事をする居職であるが、昔は「畳台」と道具を持参し、注文を受けた家に出向き、仕事をする出職でもあった。18世紀頃に描かれた「彩画職人部類」という絵図に畳刺の作業風景が描かれている。1尺程の高さの畳台の上に新しい畳の表付をしている。片肌を脱ぎ、右肘を立て立膝して縫い針で縁を縫い付けている。畳の上には大きな畳包丁が置かれている。江戸時代後期の畳刺の作業風景である。 畳は「記、紀」に登場する程、古い歴史を有するため、数多くの古事、諺、川柳などがある。「女房と畳は新しい程よい」という諺は始めに書いたが「一壁、二畳、三障子」という諺がある。昔、暖房の少ない家で、寒さから身を守る住居の三要所でもあった。また「畳の縁は踏むな」と子供の頃より、祖母や母から良く聞かされている。古い昔、畳は高価であり、縁には金襴などの貴重な織物が使われていた。ふんずけて汚してはならないと、古い昔から日本人の作法の一つに数えられていたと菰田勇司氏は述べている。「起きて半畳、寝て一畳」とか「千畳敷きで寝ても畳一枚」という諺があるが、人間の住いというのは、すべて人体から割り出して作られたものであるため、この諺からも人間の体に合せて畳が作られたことがわかる。

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