墨壷(竹中大工道具館10年史より)14 その6 墨壷の話(1) 「削ろう会」の皆さん、明けましてお目出とう御座います。今年は兎の年、建築界の不況、兎のように早く走り去ってもらいたいものです。 指金の尺、寸の話が少し残っておりました。 最近縄文遺跡から掘立て柱の穴が各地から発掘されています。青森市の三内丸山遺跡から発掘された直径1mを越えるクリ材の柱根が残っていたと報じられた時には驚きました。長方形に6本の柱が整然と並んでいたというのです。 私が以前から疑問を抱いていたのは、これらの建造物の尺、寸でありました。最近、観音寺市出身の国立民族学博物館の教授である小山修三氏にお会いして、縄文時代の建造物の、尺、寸の説明を聞くことができました。三内丸山遺跡の建造物の柱の間隔が4.2mで35cmの倍数の尺度が使われているという説明を受けました。この尺度は高麗尺と呼ばれ、縄文時代から、古墳時代の後期まで使われていたそうです。失焼した古い法隆寺も、この高麗尺が使われていたそうで、5000年の昔から、古い失焼した法隆寺まで、この尺度が使われていたとすると3700年もの長い間この高麗尺と呼ばれる尺度が使われていたことになるのです。私が不明だった神代時代の「天あめの御みはかり量」という尺度は、この高麗尺であったのかも知れません。 今年から大工の三宝である墨壷の話を書くことにします。昔の大工は誰もが手造りの墨壷を持っていました、自分の手に合った寸法で、夜なべにコツコツと作り、いろいろと彫刻を施しました。そんなところから墨壷は大工の顔であると言っていました。「墨壷の造りが悪ければ大工仕事も下手」と大工仲間で語り合っていました。自分の顔にかかわる事ですので一生懸命になって彫り上げたのです。私が彫り上げた墨壷は、厚木市の前場資料館にあり、前場氏の著書『墨壷の美』の中に掲載されています。昔の大工は大変に縁起担ぎで、自分が建築した家の「オチ材」で墨壷を彫り上げました。ケヤキの大黒柱や上がり框、床框などでした。 墨壷の型は全国的に見て三通りになっていると言われています。「関東型」「関西型」「飛騨型」です。関東型には、杓文字型と源氏型がありますが杓文字型は「しゃもじ」の型に似ているところからこの名があり、源氏型は糸車が御所車に似ていて、御所車のことを源氏車と呼ぶからだといわれています。 関西型は関東のように美しい造形美を持っておりません。長方形の角型で大変質素ですが、使用上では便利です。四国、九州は太陽の光線がきつく、墨池が乾燥しやすいのですが、角型で墨池が深いため、長時間、乾燥に耐えることが出来る利点を持っています。 飛騨型を「一文字型」とも呼んでいます。横一文字とは、関東も関西もおよばない日本一の飛騨の匠であることを大工の顔である墨壷に表しているのです。これらの墨壷の型は、昔の大工が自分の腕を自慢するために色々と考えて作り上げたもので、現在はほとんどが市売されず、プラスチック製の墨壷となっています。手造りの墨壷が薄れてゆくのは、墨壷が軽視され、昔から伝えられてきた日本建築技術の衰退を意味しているのである、と言う人がいます。 「削ろう会」の皆さんは、ケヤキ材の二股のところで手造りの墨壷を作られることを願っております。昔の大工言葉に「墨壷作りはケヤキの二股」と言う言葉が残っています。また「ケヤキの二股割れ知らず」とも言われています。また「糸車は柾取り」など墨壷にまつわる大工言葉がありますが、糸車は作るとき必ず柾目の木取りにしないと反り上がってしまうからです。(削ろう会会報8号 1999.01.15発行)
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