大工道具に生きる / 香川 量平
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花押の刻印がある鉋刃 その56  花かおう押と印鑑の話141 平安時代の後期、格式の高い人々は自分の署名した下に花押を書くのが常であった。花押というのは、署名した人物のサインであり、現代の印鑑の押印のことである。辞書には花押について、「古文書で自分の発給したものであることを証明するために書く記号。自署を草書体で書く草名が、さらに図案化されたもので、平安中期頃より用いられた。本来は自署にかわるものであったが、鎌倉時代以降は署名の下に書かれることも多くなり、室町時代頃からは、印章のように、木に彫って押すことも行われた。」とある。 花押は昔、中国より平安時代の中期に伝えられ、平安時代の後期になると、花押は次第に多くの武将に書かれるようになり、印鑑の役目を果たす花押は急速に広まって行ったのであるが、書く度に同じ書体でなければならず、その人物の特長がなくてはならず、また、他人に模写されてはいけないので、花押を書く書体にはかなりの熟練を必要とした。鎌倉時代の源頼朝の花押などは、書体が簡単で書きやすかったのか模写されたものが現在残っているといわれる。鎌倉時代以降、花押は次第に衰退の一途をたどり、諸国の大名なども、花押の印を作って使用するようになったといわれる。明治6年には実印のない証書は裁判上の証拠にならない旨の太政官布告が発せられ、花押はほぼ姿を消したが、現代においても国務大臣の閣議書類の署名の下には花押が書かれている。また、国会の中でも、花押が使われているという。新しい議員で花押を持たぬ中には丸や三角の花押が書かれているそうである。 大工の七つ道具の一つである鉋の鉋刃(鉋穂)に花押の刻印の入ったものがある。使っている大工は、戦前の鉋刃であるという。しかし、この古老の大工は、鉋刃に花押の刻印を入れた鉋鍛冶は、作者の技術力、つまり、良く切れるという自信と誇りを持っている証しであると言う。 印鑑について日本史年表に、「西暦57年丁巳、中国年号、後漢建武中元2、倭の奴国、後漢に朝貢し、光武帝から印綬を賜る(後漢書倭伝)、福岡県糟屋郡志賀島村「かなの浜」出土の「漢委奴国王」の金印は、この時のものか?」と書かれている。この出土した金印は、1700年以上たって、江戸時代の天明4年(1784)に付近の農夫によって、石組みの中から発見されたもので、本物か偽物かと長年に渡り議論されていたが、本物と断定され、昭和29年(1954)に国宝に指定されている。この金印は漢代の長さ一寸(現代の2.4㎝)の方形で、高さ、0.9㎝、鈕(つまみ)の高さ、1.5㎝、重さ108gである。日本で製作されたものでないが現存する印章としては、日本最古のものである。 我が国で印鑑が作られるようになったのは第42代の文武天皇の御代で、大宝元年(701)大宝令が施行され、官名や位階の制を改正し、律令を完成させ、翌年に大宝律を施行し、度量衡を天下に頒布し、諸国の国造りたるべき氏を決め、百官人に律を講義させ、律令を天下諸国に頒布し、使を七道に派遣して政治を巡察させる。また、704年4月鍛冶司に「諸国印」を作らせる。と日本史年表に記されている。しかし、その当時に作られた印鑑のすべてが銅製の鋳造印であった。 明治になって国民のすべてが姓と印鑑を持てるようになり、実用印材が急速に世の中に出回って行ったのである。『印鑑入門』の著者、片野孝志氏は実用印材について次のように説明している。[牙印材]象牙に代表される印材の高級品である。 「象牙」ワシントン条約で象牙が流通しなくなり、印材店は頭の痛いところである。美しくて彫りやすく、欠けないところから印材としては長所揃い。印材とし

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