大工道具に生きる / 香川 量平
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高知県高知県 杉ノ大杉 樹齢3000年144これはヒノキになった。尻の毛はマキになった。眉の毛はクスになった。そして、その用途を定めて、こうとなえた「スギとクスは、この両樹は舟にせよ、ヒノキは美しい宮を作る材にせよ、マキは現生の人民が奥城(墓)に臥す具(棺)をつくれ、また、食べられるたくさんの木の種は良くまいて生やしなさい」。素戔嗚尊の子を五いたけるのみこと十猛命といった。妹が大おおやつひめのみこと屋津姫命つぎに枛つまつひめのみこと津姫命この三神とも、また、良く木の種を分布した。それで紀伊の国にうつし奉った。その後で素戔嗚尊は熊成の峯にいて、しまいに根国に入った。 と書かれている。この素戔一族は、植林集団でなかったのかという説があるが、その当時、素戔嗚尊は木々の使いわけを知っていたのであろうか。それを知っていたのは、その当時の人々であったといわれる。縄文、弥生時代の集団生活の中で、彼等は数々の智慧を長老から受け継ぎ、木材の用途の、すばらしい「選択眼」を持っていた。また、素戔嗚尊は日本国土に多くの木の種を良くまいて生しなさい。と伝えているが、その当時の日本国土には、青々とした多くの木々が生い茂っていたことであろう。 鹿児島県の屋久島に生育する縄文杉の「大王杉」は樹齢がなんと7200年もの古い老杉があり、「竜神スギ」「大和スギ」なども約3500年前後といわれる老杉である。全国各地には杉の老木が数多くあるが四国の高知県の大豊町にも昔から「神代スギ」と呼ばれる夫婦杉がある。樹齢は約3000年といわれる神木である。しかし、この杉の巨木が素戔嗚尊の「ヒゲ」とするならば尊は、その当時生きていたのであろうか。また、尊は「樟の木と杉の木は舟にせよ」と伝えているが、それは尊の言った通りで、我が国は島国であるため舟は不可欠であった。その当時の舟は丸木舟で、伐採した杉の丸太をクサビなどで二つ割にして、割り面を焦がして石斧で内、外面を仕上げたのであろう。 福井県の鳥浜貝塚より縄文前期に作られたという6mの丸木舟が出土している。約5500年もの昔の杉の木で作られたものである。しかし縄文人が直径1mの杉の巨木を伐採する技術は、どの様な技術を使ったのであろうか。以前、伊勢の皇大神宮遷宮の折に伐採した桧の巨木は、すべてが「三つ紐きり」の技法で伐採されていたと上條先生より報告書をいただいたことがあった。今も高知県では、太いケヤキの巨木を伐採するのは「三つ紐きり」の技法で行っている。この樵の職人に聞くと、この技法は古代から行われていると聞いた。縄文人も、この技法を使っていたのであろう。この技法は伐採する巨木の元口に三方から穴をうがち、紐と呼ぶ支柱を三本残して内部を空洞とし、倒す側の反対の紐(支柱)を切断すると、巨木は何のことなく、その方向に倒れるというのである。しかし、巨木の側面に穴をうがつ方法について、以前、故前場幸治氏と口論したことがあった。そして、二人が行きついた結論は、この方法であった。伐採する巨木の側面に高い櫓を組み上げ、寺院で鐘を突く橦木を釣し、橦木の先端に尖った黒曜石を取付けて釣した橦木に綱をつけて大勢が鐘を突くように引いて、巨木の側面に穴をうがつという結論であった。この方法であれば生木であるため、意外と早く、穴をうがつことが出来たことであろう。 琵琶湖の周辺は現在、美しい松林であるが千数百年の昔には、スギの美林であったといわれる。杉材は軽く、加工しやすく、運びやすい利点があり、7、8世紀頃に古代の建造物に使用されたのであろう。今も杉の巨木の切株が多く出土するという。 島根県太田市に「三瓶小豆原埋没林公園」がある。約3500年前の縄文時代の後期に埋木となった杉の巨木が展示されている。この埋木は三瓶山の火山活動によって発生した火山泥流で押し流された流木群や、縄文杉の立ち姿のままのもので「発掘保存展示棟」に展示され、縄文時代の森の息吹きが感じられる。円形ドーム型で、地下には階段で廻りながら見学しつつ地下にくだるようになっている。途中で直径2mもある杉の巨木や、トチ、ケヤキの立木が7本、長さ13mの杉の流木など14本が発掘当時のままで展示され見学することができる。この埋木のことを「神代杉」と呼ん

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