大工道具に生きる / 香川 量平
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千本釈迦堂の四天柱 その59  職人の失敗談149 昔、木工職人の中に、調度指物師、茶道指物師、曲物師、彫物師、挽物師、刳くりものし物師、箍たがものし物師など精巧な細工物を作る職人が多くいた。それらの職人たちが、細工ものを作っていて、しくじると「ナムサン」という言葉を唱えていたという。その言葉は失敗を意味した隠語(かくし言葉)であるが、辞書などでは驚き、失敗などを意味し「南無三宝」の略で仏教用語であると説明している。これらの職人は失敗した時、この言葉を唱えると、次からは決して失敗をしなくなるという呪まじないの言葉であったという。 鋳物職人が鋳物細工で失敗すると「オシャカ」になったという言葉を昔から使っていた。その言葉が他の職人に伝わり、大工職人にも伝わって細工もので失敗すると、今もこの言葉が使われている。また、一般の人々も、この言葉を使っている。この「オシャカ」と言う言葉の起こりは、昔、鋳物職人の見習が「阿弥陀如来」の仏像を作るよう親方の指示を受けて作ったのであるが、鋳型を外してみると、何とお釈迦様になっていた。見習が大きな声で「オシャカ」になっていると叫んだのが、この言葉の始まりであるといわれている。 大工の失敗談は古い昔から全国各地にある。母親、妻、娘などによって、大工の父親の失敗を助言して助け、無事に上棟するという話が数多くある。その中で有名な話は、京都に伝わる千本釈迦堂の物語りである。なぜ千本という名が付けられているのか「京の通り歌」の中に千本通りという地名があるが、この千本という名の由来は昔、東山の鳥辺野と並ぶ葬地で卒塔婆が立ち並び、いつしか千本の数になっていた。その千本の卒塔婆の下に眠る死者たちを供養するため、義空上人によって、この地に千本釈迦堂が建立されたのである。 この千本釈迦堂、大報恩寺は今より、794年前の鎌倉初期、貞応2年(1222年)義空上人の発願によって建立され、京都市で一番古い木造建築の寺であり、本堂は総ヒノキ造りである。そして現在国宝となっている。本堂は創建当時のままである。この義空上人は苦難の末、本堂はじめ諸伽藍を建立した。義空上人は奥州、平泉の藤原秀ひでひら衡の孫にあたる人物であったといわれる。この千本釈迦堂の造営に指名されたのが、京都一番の宮大工の棟梁「長ながいひだのかみたかつぐ井飛騨守高次」であった。 高次は精進潔斎し、この工事に着工した。工事は順調に進み、何の躓つまずきもなく、上棟式の日取も決っていた。しかし、棟梁に何の魔が差したのか、内陣を囲む四天柱の丸柱を1本、1尺短く切り落してしまった。顔色は真っ青となり、額から冷汗が流れた。この四天柱は尼崎の信徒によって寄進され、太い木曽桧の丸太を四つ割にしたもので柱を取換ることは出来ない。困り果てた高次は、家に帰ったが思案するばかり、妻のおかめが聞き質した「棟梁どうしたのさ」「実は四天柱の柱を1本、短く切り落したのだ」と言ったら、考え込んでいたおかめが「その不足分を桝ますぐみ組で補えば良いのでないのですか」と助言した。高次は「ぽん」と膝を叩き、「それは良い考えだ」と言って、翌日、残る3本の柱を切り揃え、その上に斗ときょう栱(ます)を組上げ、見事な四天柱を修復したのである。 しかし、高次には一抹の不安が残った。妻おかめの助言により失敗した四天柱を修復したことが、世間に知れ渡ると大工の棟梁としての面目が丸潰れとなり、他の大工連中の笑いものになることを恐れた高次は、妻おかめに自害せよとも言えず困り果てていた。妻おかめの顔は「三みところ所あたり(面手と右・左の頬)」が高く鼻が低い不美人であった。しかし、働きもので誠実で冷静な心を持ち、人一倍、勘の良い良妻であった。四天柱が修復された時、すでに高次の心の内を読みとり、上棟式の日取が決った、その日、高次の帰りを待たずして、妻おかめは天国へと旅立っていたのである。 高次はおかめの死を乗り越え、着工から4年後、安貞元年(1227年)盛大な上棟式がとり行われた。祭

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