大工道具に生きる / 香川 量平
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水牛の角で作られた中国の墨壷(著者所有)中国の墨壷  その7  墨壷の話(2)15 「削ろう会」の皆さん、毎日元気一杯で自分の仕事に打ち込まれていることと存じます。 墨壷の話が続きます。墨壷の歴史は大変に古く、厚木市の前場資料館の館長である前ぜん場ば幸ゆき治じさんがエジプトを訪れた時、古代エジプトの遺跡で、貴族であったトトメス三世からアメンホテプ二世時代の宰相(建設大臣)のレクミラ墓の奥室壁 に墨打ちの作業場 が描かれ、この墳墓は紀元前約1500年前の築造であるから、今より約3500年の昔に墨打ちの技法がすでにあったものだと説明してくれました。しかし現代のような優秀な墨壷などではなく、石箱が出土しているところからみると、糸を墨の入った石箱に浸して墨打ちしたのではないでしょうか。エジプトの優れた石材加工の技術や石積技法は、墨打ちの技術と共にヨーロッパに伝えられたものと思われます。 東洋での墨壷の起こりは古代中国です。現在の中国で大工の神様と仰がれている「魯般」が蜘蛛が糸をはき出しているのを見て墨壷という道具を考え出したのだと言ったのは中国昆明市の毛瑞信さんでした。中国では墨壷のことを墨斗とか墨線と書き「モーシエー」と呼んでいました。 墨壷が我が国に伝えられたのは飛鳥時代、仏教建築と共に伝えられたのですが、わが国の古い縄文時代は掘立柱の建築でした。巨大な建造物が日本各地に建てられていたのか、遺跡から深い大きな柱穴が多数発掘されています。このような建造物を組み上げるとなると、丸柱に胴どうざし差の枘ほぞあな穴や渡りアゴのような建築技術が必要となるのは当然のことです。 そこで登場するのが墨壷なのです。私の素人考えですが、縄文時代の建築に使われていた墨壷は、古代エジプトで使われていたような墨打ちの技法であったのではないかと想像するのです。 そのような墨打ちの技法が出雲のたたら製鉄跡に一ヶ所だけ残っているそうで、炉を築く時の地墨を打つのに麻紐に墨を浸して直線を引き出しているといわれています。この技法は古い昔から受け継がれているそうです。縄文時代の建築にはそのような墨打ちの技法を使って丸柱に直線を打ち出して、胴差しの枘穴を掘ったものと思われます。 古い昔には墨壷のことを「縄(じょう)」と呼び、墨縄、墨頭、墨斗、と書き呼んでいました。我が国に現存する最古の墨壷は正倉院の御物にある「銀平脱龍船墨斗」と「紫檀銀絵小墨斗」の二挺です。平成元年の正倉院展に南倉から出展されていました。銀平脱龍船墨斗は麻布に黒い漆を塗って仕上げたもので船形になっていて墨池は大きく、頭は龍で大きな舌と目が印象に残っています。長さは29.7cm、幅が9.4cm、高さ11.7cmで大工が使う実用品ではなく、東大寺の釿始めの儀品として使われたものではないかと感じました。紫檀銀絵小墨斗は木製ですが大変に小さく、長さ4cm幅と高さが1.5cmで墨糸に白いものが付着しているので、何に使われていたのか不明ですが、私は白墨を入れた容器で文字の修正用として使っていたのではないかと考えたのでした。 大工が使った最古の墨壷は、明治12年に奈良の東大寺南大門の梁の上で発見された墨壷と墨指です。現在東京芸大で保管していますが、わたしの姪が在学中に見学を申し込んでくれていました。この墨壷は「尻割れ型」という異名を持っております。その尻割れ型の墨壷と、桧で作った墨指と桐箱の箱書の三点を見学することができました。墨壷は木製の桑の木で見事に作られていました。糸車は篭状に作られていて、すこし壊れかかっていました、中央部に吊り輪のような環が取付られ、この環に糸を取り付けて建物の垂直を見る下げ振りの役目を果たしていたのでしょう。墨池は小さく、実用品としてあまり使っていないと感じまし

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