大工道具に生きる / 香川 量平
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直線を引く図(古代エジプト レクミラ宰相の墳墓内の壁画)古い墨壷(墨と糸とが分離している)152 その60  [最終回]墨壷昔ばなし四角の石材に対角線を引くに、両手に糸をつまんで脇の人が墨糸を打つところ     [前場氏提供] 我が国の大工道具の中で一番大切なものといえば「指金」「墨壷」「釿」であるが、これらの道具を大工の三宝と呼ぶのには訳がある。昔、大工の棟梁の家々では正月の三ヶ日、大工の神様である聖徳太子の掛軸を床の間に掛け、三方には指金、墨壷、釿を乗せ、御神酒と共に供えて棟梁は、その年の一年間、工事の安全と職人一同の無病息災を朝夕に祈願した。そのような訳で大工の三宝とも三種の神器とも呼んだのである。三宝の一つである指金の話を書こうと思ったが、直井棟梁の温故会の会報に記載したので、墨壷の話とした。 墨壷という道具は非常に古く、古代エジプト文明によって作られたピラミッドの内部の石積の中に墨打ちの跡が残っている。 また、古代中国に魯ろはん般という大工が指金、墨壷、釿、鋸などを作り出したという伝説があるが魯般という人物は実在していたといわれる。魯の国の生れで、のちに化学者となり数学者でもあった。そして、「規きくじゅんじょう矩準縄」の技術を開発したという。この魯般が作り出した「ものさし」を魯般尺と呼び、我が国の指金の裏に「財、病、離、義、官、劫、害、吉」の八文字が刻まれている。昔の大工は、この物指の吉寸である財、義、官、吉の目盛を使って物事を決めていた。それで、この物指を「風水尺」と呼んだのである。中国では、墨壷を墨斗とか墨線と書き、「モーシエ」と呼んでいる。 古代中国の黄河文明によって、土木建築の技術は大きな発展を遂げ、仏教建築が見事に花ひらいていた。その建築技術は仏教と共に朝鮮半島の百くだら済の国へと伝えられ、七堂伽藍に配置した仏教建築が建てられていた。地盤は版築工法で突き固め掘立て柱などではなく、礎石の上に柱を建て桝ますぐみ組で軒を支え、屋根には瓦を葺き、棟鬼には鴟尾を置くという見事な建物であった。その頃、我が国では、第32代崇峻天皇の時代、進歩派の大臣であった蘇そがのうまこ我馬子と保守派の大臣である物もののべのもりや部守屋とが激しく対立し、ついに戦となり、聖徳太子は進歩派の蘇我軍に加勢した。しかし、三度も退却した。日本書紀に太子が「今、若し我をして敵に勝たしめたまえば、必ず護世四王の奉為に寺塔を起てむ」と蘇我馬子と共に祈願した。そして、苦戦の末、蘇我軍は勝利し、物部守屋は滅亡した。そして、物部守屋の莫大な私財を手にした蘇我馬子は法興寺(飛鳥寺)を太子は難波の荒あらはかむら陵村に四天王寺を建てる為、百済から建築技術者の「寺工」「瓦工」「露盤工」などを招いて工事に着工した。その時、寺工が持参した大工道具の中に墨壷は、どのような形であったのだろうか。その後、太子は若草伽藍(法隆寺)も、その私財のよって建立した。それらの建築の工事に従事した我が国の工人たちは、百済の寺工の指導を受けながら仏教建築の技術を身に付けて行ったのである。 聖徳太子が四天王寺を建て始めた頃より以前、第21代雄略天皇の御代、朝鮮半島の新羅の国から渡来していた韋いなべ那部の建築集団の孫にあたる韋いなべのまね那部眞根は雄略天皇に仕えて、建築に携わる大工の棟梁であった。ある秋の日、石を台にして木を削っていた。天皇が催した女相撲に見とれて眞根は斧の刃先を痛めてしまった。それを見た天皇は眞根を死刑にするよう指示したので、仲間の大工たちが嘆き惜しみ、天皇に向って眞根の命乞いの歌を詠み上げたのである。

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