大工道具に生きる / 香川 量平
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銀平脱龍船墨斗(正倉院蔵)南大門の忘れものの墨壷と墨指[複製](竹中大工道具館蔵)153 「惜しいなあ、韋那部の工匠よ。  彼の懸けし墨縄。  彼がいなかったら誰が懸けるのか。  惜しい墨縄。」と仲間の大工が歌った声を聞いた天皇は心をひるがえし眞根の死刑をやめさせた。という記事が日本書紀の雄略紀の中に書かれている。この歌の中で墨縄とは墨壷のことである。 我が国で一番古い墨壷が奈良の正倉院の南倉に現存する「銀ぎんへいだつりゅうせんぼくと平脱龍船墨斗」と名付けられ長さ9寸8分、幅3寸1分、高さ3寸7分の船型で糸車などの一部が欠失している。頭は龍の顔で赤い目玉と大きな舌を出し、寄木造りで黒漆の仕上げである。東大寺大仏殿の上棟式の儀器として使われた可能性が高いという。また、正倉院には、もう一艇の「紫したんぎんえしょうぼくと檀銀絵小墨斗」という長さ1寸4分、高さ6分5厘という小さな墨壷が中倉に現存する。材質は紫檀製で、明治時代に片方の側板と糸車、把手が修復されているが昭和30年に、唐櫃の塵の中から糸車と把手が発見され、糸車は鹿の角で作られ、把手は銀製の細い棒で断面方形の針金をよじったものと解説している。 兵庫県川西市の栄根遺跡から桧で作られた尻割れ型の墨壷が出土している。8世紀頃のものと言われているが、この墨壷は船大工が使っていた感がある。船大工はカーブ状に墨を打つが、これを「投げ墨」と呼ぶ。また、島根県の出雲の「たたら製鉄」では炉を築く折、長い麻糸に墨汁を浸し、墨打ちしているのを「水縄」と呼んでいる。 我が国で大工が使っていたという一番古い墨壷が明治12年(1879)東大寺の南大門の梁の上から、木製の墨指と共に発見された。現在、東京芸大にあるが「忘れものの墨壷」という異名を持っている。以前、箱書と墨壷、墨指の3点を見学したことがある。墨壷は船型で尻割れ型、桑材で作られ長さ7寸5分、幅2寸5分で、軽い。糸車は上部に籠状で作られ取付けられているが、壊れかかっている。中央に回転自在の釣金具があるが、松崎天満宮の造営の絵図に棟梁が仮見の立てり起しに使用しているのが、この釣金具である。もう一点の桧の墨指は長さ5寸5分で片方の先が勾配に削られているが国宝級の墨壷とは釣り合わず、南大門の墨掛けに使われたとは思えない。 国宝の墨壷が日光東照宮にある。三代将軍家光が寛永11年(1634)日光東照宮の本殿の釿始めの儀器として使ったもので、後に棟梁の甲良宗広が頂いたものであるが、棟梁はのちに日光東照宮に奉納している。長さ9寸2分で金めっきの銅板製で国宝であるが年代が浅く、道具愛好者には興味が薄い。 墨壷は時代と共に改良され、尻割れ型から現在の型に移行している。昔、大工の間では墨壷が大工の顔であると言った。手作りであったので、美しい墨壷を持つ大工は仕事も上手であると仲間同志で言い合った。その頃の墨壷には関東型、関西型、飛騨型の三種類があったようで関東型は墨池が広く墨指を痛めず見事な彫刻が施されて美しい。関西型は角型で墨池が深く、彫刻などはあまりなく地味である。飛騨型は横一文字といわれ、日本一の技術を持つ飛騨職人の誇りが表われている。その後、墨壷を作る専門職の名人が現れて、立川流と呼ぶ美しい彫刻入りの墨壷が全国に普及して行った。しかし、最近では「プラスチック製」の墨壷が全国に出廻り、小型で軽く墨もれが無く、壊れにく

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