古い墨壺(前場資料館蔵)154く、しかも低価格のため、日曜大工などに意外と人気が高い。 墨糸は専門の絹糸が使われるが、用途によって使い分ける。太さに大、中、小とあり、昔、松丸太の上具材に墨掛けする糸は大のもの、柱などは中のもの、造作用に使う朱壷などは小の糸が使われた。また、大工の親方などが使う墨糸は、丈夫で長持ちし墨の「くくみ」が良い山繭で作られた「天てんさんし蚕糸」が使われていた。墨糸の先端に取付ける「仮かりこ子」を軽子、猿子などと呼ぶ。中国では仮子を「替かえぼ母」と呼ぶが、魯般という大工が母に墨糸の先を持たせていたが、母が老いたので母に代わるものを作り出したので「替母」と呼ぶのだという。墨池に入れる墨すみわた綿を昔は「ネバシ」と呼んでいた。ヨモギの葉を乾燥させて、叩いて、もみほぐしヨモギ綿を作り、それを使った。墨汁の吸収が良く、墨綿が乾いても、すこしの水で、すぐに使える利点があった。墨綿に浸す墨汁は「ケズリ墨」と呼ぶ膠にかわの入った墨を「寒かんの水」で溶かし、一年間使った。膠の入った墨は雨に晒されても消えない。昔の大工が田舎の家に使う上具材は、松の丸太を釿で十二角に「瓜うりむぎ」した。その白い木肌に墨打ちするので失敗は許されない。墨打ちは経験の豊かな親方が行うが、それには真すぐ打つ為の決まりのようなものがあった。(一)墨糸の縒りが完全に、もどっているか。(二)墨打ちの日、外は無風の状態であるか。(三)墨打ちの親方の手は垂直に持ち上がっているか。(四)曲がった梁の下場には矩かなば場を作って墨打ちせよ。(五)松丸太の墨掛の間、女には接触するな。など昔の大工は実行していた。(四)の矩場というのは曲がった鉄砲梁の下場に墨打ちの折には、中央部に釿で水平の座を作ることで、末と元に張った芯の白糸に矩場の座に指金を立てて芯の位置を矩場に移して、二度に渡り墨打ちするもので、それによって曲がった梁の下場に正確な墨打ちができるのである。(五)の女に接触するな、とは墨打ちが昔、神聖視されていたのである。 西洋の人たちが、日本の墨壷を見て驚いたという話が残っている。アメリカの動物学者であった故、E.モース氏が約百年前に収集した日本の民具を紹介する『モースの見た日本 モース・コレクション[民具編]』という書籍がある。その中に「アメリカの大工も墨壷を使うとよい」と表題がつけられ、1883年(明治16年)2月上旬、東京での日記に次のように記されている。「大工は木製の墨にひたした綿を入れておく容器と紐を巻きつけた輪からなる道具を持っている。紐を延ばしたり巻きこんだりすると、それが綿の中を通るようになっている。紐の先端には錐がついており、大工は紐を引き出し、錐を板にとめて、その紐をピンとはじいては板の上に墨の線をつける。わが国の大工は白墨の線をひくが、この日本の道具ははっきりとした、黒い、耐久性のある線をつけるので、わが国の大工もこれを使用したらよいだろう」また、幕末に静岡県戸田村の沖で、ロシアの軍艦が嵐で沈没した時、地元の船大工が集って代替船を建造した。その建造中に日本の船大工が使う墨壷の便利さと、正確さに、ロシアの乗組員一同が驚嘆したという話が今も地元に伝えられているという。 故、村松貞次郎氏の『大工道具の歴史』の中に次のような記述がある。「さいきんのアメリカの建築工事場でも、日本のスミツボがさかんに使われている。しかも“スミツボ”という名前で。昭和45年の大阪万国博覧会で、外国館の工事に来た外国の大工さんたちが、近くで仕事をしている日本の大工さんの道具中でもっとも興味を示したのは腹がけ式の釘袋とスミツボだったという。そうして仲良しになった日本の大工さんたちにせがんで、それらを土産に買って帰ったという話がある。日本のスミツボは案外こうしたことから、世界に広まって行ったのでないのだろうか。」 中国から百済に伝えられ、日本に渡って来た墨壷は改良され世界に誇れる墨壷となったのである。【終】 今回で「大工道具に生きる」は60回を迎えるに至り終了させていただきます。長年の御愛読、誠に有難とう御座いました。厚く御礼を申し上げます。(削ろう会会報78号 2016.06.20発行)
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