大工道具に生きる / 香川 量平
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 その8  墨壷の話(3)17 大阪の吹田市に平原比呂子さんという詩人がいる。「棟上げ」という詩集の中に「墨壷、朱壷」という詩の一節がある。読ませてもらうと 「膠を混ぜた墨汁の入った墨壷 紅殻の入った朱壷 材木の先に軽子をキュッと立たせる 糸車がカラ、カラ、カラと回り 絹のスミ縄(糸)が張られる 大工の指が糸をつかみピンと弾く 白木の上、瞬時に引かれる真直ぐな線 はるか昔から 墨壷は見えない箇所の線引きに 洗うと消えるベンガラの朱壷は 床の間などの見える場所の線引きに使い わけられふたつで一つ 「キュッ、カラ、カラ、カラ、ピン きゅ、から、から、ぴん 墨朱の壷の呼吸があい 黒く、朱く彩られてゆく職人の指。」 平原さんの主人は大工の棟梁だ。職人の世界で生まれた詩だ。実感がこもっていて読む人の心を打つ、大工の指先はいつも真黒なのだ。その黒く禿びた指先が不潔だと言って昔、私から去って行った色白の可愛い娘がいた。黒い指先を見るたび、その娘を思い出す。 昔、大工の棟梁は小屋組みの松丸太に墨掛を行う数日前から精進潔斉し、女から遠ざかった。そして松丸太の墨掛は無風状態の早朝に行う。すこしでも風があると墨糸が風に流されて正確な墨打ちができない。また、墨糸をつかむ指と持ち上げる腕が垂直でなくてはならない。鋭い勘と長い経験がものを言う一瞬なのだ。棟梁は今打った墨が桁水より一尺上がりに正確に打てているかを、「回手」を回し糸車のカラ、カラと回る音を聞きながら確かめていくのです。昔、私の親方が「カラ、カラと回る糸車の音は、墨壷に宿っている『本地慈氏菩薩』が、お前が今打った墨は間違ってはいないかと忠告しているのだ」と言ったことがあります。 黒い墨壷なのですが、植物図鑑には、春に花を咲かせる可愛いスミレ草が墨壷(すみいれ)に似ているところからその名が付けられた、と説明しています。 墨壷はアメリカに昔なかったのか『モースの見た日本』という書籍の中に「モースの日記より」と題して日本の墨壷の話が書かれています。「アメリカの大工も墨壷を使うと良い。 1883年(明治16年2月上旬、東京にて)大工は木製の墨にひたしたる綿を入れておく容器と紐を巻きつけた輪からなる道具を持っている。紐を延ばしたり巻き込んだりすると、それが綿の中を通るようになっている。紐の先端には錐がついており、大工は紐を引き出し錐を板に止めて、その紐を張り、ピンとはじいて板の上に墨の線をつける。わが国の大工は白墨の線を引くが、この日本の道具は、はっきりとした黒い、耐久性のある線をつけるので、わが国の大工もこれを使用したら良いだろう」と書き残しています。 幕末に静岡県戸田村の沖でロシヤの軍艦が沈没した時、地元の舟大工が集まって代替船を建造しました。その建造中、日本の舟大工が使う墨壷の便利さと正確さにロシヤの乗組員一同が驚嘆したという話が戸田村に今も残っているそうです。戸田村で船を建造したのでヘダ号と名付けられ、母国に無事帰国した話が縁となり、エリツィン大統領とナイナ夫人が日本を訪問した折にこの地を訪れています。 故松村貞次郎先生の著書、『大工道具の歴史』の墨壷の項に、「さいきんのアメリカの建築工事場でも日本のスミツボがさかんに使われているようである。しかも“スミツボ”という名前で。昭和四十五年の大阪万国博覧会で、外国館の工事に来た外国の大工さんたちが、近くで仕事をしている日本の大工さんの道具の中でもっとも興味を示したのは腹がけ式の釘袋とスミツボだったという。そうして仲良しになった日本の大工さんたちにせがんで、それらを土産に買って帰った話がある。日本のスミツボは案外こうしたことから世界に広まっていったのではないだろうか。」と説明しています。 また、『中世の職人』という書籍の中にチョーク紐即ちそれを引っ張って中央ではじくだけで直線が引けるように、石灰の粉を染みこませてある紐も、1435年までに買うことができるようになったと書かれています。西洋には日本のような優秀な墨壷はなかったものと思われます。その頃日本は室町時代、大工の三宝である指金、墨壷、釿を始め大工道具が出揃い、数々の名建築が建立されていた時代でした。 墨壷には赤壷と呼ばれる朱壷があります。朱壷はすこし小さく、昔は大工の手造りでした。材質はほとんど欅材で大工は主に造作用として床廻りに使っています。仕事が終わった後に水拭きすると簡単に朱が消え去るからです。また、黒く煤けた古家の改修工事など

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