大工道具に生きる / 香川 量平
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釿の刃跡天理市の上殿古墳から出土した釿 その11  釿(ちょうな)の話(1)23 3月18・19日福井県武生市で行われた第7回「削ろう会」には、永六輔さんをお迎えして、杉村棟梁、直井棟梁やスタッフ御一同様の御尽力で盛大に行われたこと、御歓び申し上げます。 毎回の大会ごとに、名工の方々より研ぎ、削り、砥石、刃物、鋼と数々の知識をお教えいただき、今迄の自分が「井の中の蛙」であったことを深く痛感いたしております。今後ともよろしくご指導ください。 関東、関西の大工道具を見渡してみると、それぞれの土地風や親方によって、名称や呼び名が、少し違っている大工道具があります。厚木市の前場幸治さんと、関東と関西の大工道具の呼び名などの違いの対談を一度やろうと申し込んでいます。四国の大工は香川県の塩飽大工や山口県の長州大工の流れをくんでいるので、私の書く大工道具の話の中にも多々間違いがあろうと思いますが、お会いした折にはご忠告下さい。 古い昔から大工の三宝と呼ばれる大工道具の中に「釿ちょうな」があります。「手斧」とも書きますが。大変に危険な道具の一つに数えられています。研ぎすました刃物が使い手の方に向かってくるからです。そのような訳で、昔の大工には誰もが、向う脛に1つや2つの釿の傷跡を持っております。大変に危険な道具なのですが、これ程大きな力を持つ大工道具は他にありません。昔の農家の小屋組は、ほとんどが、大きな松の丸太を組み合わせて作り上げていました。山で木本祭が終わり、伐採された松丸太は山里の広場に集められ、親方の指示で、大工は釿で松の丸太を十二角に瓜剥ぎするのです。瓜剥ぎされた真っ白い松丸太の肌に親方が墨掛けを行います。墨掛けが終わると親方がきつく刻みの指示を行います。危険な仕事ですので、親方は職人連中に油断させまいと、きつい指示を行うのです。そして釿の化身「本地薬師如来」に怪我のなきようお祈りしていたのでしょう。 親方のきつい指示と、お祈りが終わると大工職人は、頭にねじり鉢巻きをして心を引き締め釿を使って松丸太の墨掛けどうりに刻んで行くのです。その時、釿の大きな力が最大限に発揮されるのです。油断すると、この時自分の向う脛に大きな傷跡を残すことになるのです。 松山市堀江町の変わり鍛冶、白鷹幸伯さんは釿の語源は「ておの」が「ちょうな」になり「与岐」は木を横に切るからその名があり、「鐇たつき」は木を縦に割るから、その名が付けられていると説明してくれました。 釿の歴史は大変に古く、「チョウナは生きている化石」と『大工道具の歴史』の書物に、故村松貞次郎先生が説明しています。また中村雄三氏は『道具と日本人』の著書で、山梨県 大丸山古墳、大阪府 七観古墳、同 百舌鳥大塚山古墳、奈良県北葛城郡美村尼寺から鉄柄付きの完形品が出土している。と述べ、これら全鉄製の釿は、儀器として埋葬されたのであろうと説明しています。古墳時代に埋葬された全鉄製の釿と、現在私たち大工が使っている釿の姿や形がほとんど変わっていないので、村松先生は「チョウナは生きている化石」と説明しているのでしょう。変わっているところと言えば柄をつなぐ箱形の櫃ひつの部分と、木製の柄ぐらいです。その当時の釿の櫃は、現在のようなものではなく、刃と一体化したもので袋状になっていて、無理なハツリは出来なかったが慶長の頃には現在のような箱形の櫃が釿刃に取付られ、両手を使って、木材のはつりができるようになっただろうと、村松先生は説明しています。 釿の櫃は一見なんでもないように見えますが、使い手にとっては大変に重要な役割を果たしているのです。昔から「釿を買うなら櫃を買え」と大工仲間の間

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