大工道具に生きる / 香川 量平
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釿を使う様子(春日権現記絵)飛鳥型釿(白鷹幸伯氏復元)28が、最近ではほとんど使っておりません。昔、田舎の住宅で松丸太の上具材を「さらし」(見せるようにする)にするから釿の刃跡を「矢羽根ばつり」にしろという親方の指示で、見事にはつったことがありますが、四国では便所の梁や中引の釿の刃跡は、なぜか丸鉋で削り取ります。 また釿にも御物があり正倉院に保管されています。故西岡常一棟梁が写生した釿が『続道具曼陀羅』の中に掲載されています。「釿、刃先中二寸、二寸二分(現在市販せるものと大差なし)丸柄にして巾せまし」と書かれています。しかし釿の出世大将といえば、日光東照宮本殿の釿始めの儀式に供えられた儀式用の釿ですが、現在国宝に指定されています。 『続日本の絵巻』全27巻の中の「春日権現験記絵」に描かれた釿はつりの図があります。工匠たちが釿を片手で巧に操りながら「木づくり」をしています。地面にぴったりと腰をおろし、片肌をぬぎ、左手で巾広の厚板を握り、右手で大きな釿を使っています。昔の工匠は大変な力持ちであったのでしょうか、大きな釿を片手で一日中はつるのは私の経験からして無理と思われます。おそらく釿の刃巾が2寸前後の「小釿」であったのでしょう。小釿であれば片手で一日中はつることも可能であると私は思います。この絵図では釿刃が約3寸はあり、長い柄であるため、片手使いは無理であり、正確なはつりができません。 私も若い頃、釿はつりに自信がありましたので、桧皮葺の軒付を京都の吉村重春氏が鍛えた片手釿で、はつったことがあります。桧皮の軒付は、水でたっぷりと湿らせてありましたが、高い足場の上でもあり、軒付を投げ勾配に片手では正確にはつれず、とうとう軽くて小さな片手釿でしたが、両手使いとなってしまいました。しかし良く見ると桧皮師の職人も、片手使いの小さな釿を両手でしっかり握ってはつっていました。正確なはつり仕事には片手などではつるのは無理であることを実感しました。 松山市堀江町の鍛冶、白鷹幸伯氏は法隆寺大工、故西岡棟梁より法隆寺の古代釿と古代鉇の痕跡のある桧の木片を頂いています。その木片の刃跡を見せてもらいました。古代の工人が力強くはつった刃跡を見て、プロの私も驚きました。桧材とはいえ、見事に斜はつりされていて、しかも正確な刃跡は、かなり熟練した釿の使い手であったと私は推察しました。釿刃は約3寸ほどであったと思われます。その正確な刃跡からみて、おそらくその当時の工人たちは、立ち姿勢で、しかも釿の柄をしっかり握りしめて釿はつりをしたものと思われます。 白鷹幸伯氏は、想像力と推察力の天才であり、故西岡棟梁よりいただいた法隆寺の木片に残る古代釿や鉇の痕跡と、九州地方や松山地方から出土した鉇や斧を綿密に観察して古代の刃物を復元したのです。古代の鍛冶技術は幼稚で、古代釿は袋状の貧弱な櫃であるため、立ち姿勢で両手を使ってのはつりは無理であったが、その後、鍛冶技術の進歩により、現在のような頑丈な櫃に進化してきたのですと白鷹氏は古代釿について説明しています。 しかし、古代釿も両手使いが可能であるという私なりの考え方があります。それは(1)はつる材質が桧材で柔らかい。(2)棟梁から工人たちに釿の櫃が貧弱であるため、無理なはつりを行わないよう注意している。(3)木材に釿が立ち込んでも、決して「こねる」ことはしない、のがその理由です。 しかし、白鷹氏の復元釿の櫃も、故吉川金次氏の著書にある和泉黄金塚古墳から出土の手斧の復元模型を写真で見ても、古代釿の櫃は貧弱などころか、かなり頑丈に作られているように私には見えるのですが。(削ろう会会報16号 2000.12.05発行)

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