大工道具に生きる / 香川 量平
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ある棟梁の道具箱(竹中大工道具館蔵) その14  釿の話(4)29 私が大工の見習に入った当時には、兄弟子の他に二人の職人が親方の仕事を手伝っていました。親方は私に向って「こちらの職人の道具箱を見てみろ」と言うので、道具箱の中をそっと覗いてみると、鉋や墨壺が光って見えました。もう一人の職人の道具箱の中には黒い手垢の付いた鉋がありました。 親方は良く私に「道具の手入の良い職人は仕事も早く上手だが、手入の悪い職人は仕事も遅く下手だ。大工の道具はすべてが自分の体の一部だ。一旦自分の道具を握り締めると刃先まで自分の血が通っているのだ。自分の道具の手入を怠るな、道具の手入が良ければ大工仕事も早く上達する」と毎日のように話しました。親方の言った言葉を深く肝に銘じて、大工道具の手入を今迄すこしも怠らなかったのですが、残念なことに私は大工仕事が上手になれませんでした。 その当時の職人の道具箱の中には、大きな釿と小さな釿の2丁がありました。大きくて重い釿は住宅の小屋組に使う梁や中引、客呂などの大きな松丸太を十二角に瓜むぎする時や、墨掛が終った梁や中引の渡り顎の加工や大きなはつりの時に威力を発揮しました。もう1丁の軽くて小さな釿は、大きなはつりには使わず、主に「木こづく作り」と言って材の狂いの修正用として使われていました。槐の木で作った釿の柄は、どちらの釿の櫃口にも合うように仕込まれていて、釿の銘は瓢箪の印の中央に「丈」の字が打ち込まれていて、親方や職人たちはその釿を瓢箪丈と呼んでいました。私もすこし釿打ちができるようになって知ったのですが、讃岐の大工がなぜこの釿を好んで使ったのかには、一つの理由があったのです。釿の櫃口がきっちりとした正四角形で、刃先と櫃口に捩れがほとんどなく、昔から大工仲間が嫌った「櫃ふれ」がないのが好まれた理由だったのです。 昔、農家が母屋を普請するとなると、親戚はもちろんのこと隣近所の人々が手伝い合うという約束ごとのような決りが私の土地にはありました。古家の解体から基礎工事、建前、瓦葺き、小舞かき、荒壁つけなど、すべての工事を人々が手伝い合い助け合って仕事を進めて行きました。木材の購入は棟梁の指示に従って、一年前から松材を製材して、桁、母屋、胴差、二階差、入口差を木取り、納屋や倉庫を借りて、風通しが良いよう輪木をきって高く積み上げ乾燥させて、松材の狂いを生じさせます。施主は秋の収穫が終ると大安吉日に棟梁が始めの「釿始め」の儀式を行います。その最初に取りかかる仕事が乾燥させて狂いの生じた松材の長物類の「木作り」なのです。この時使う釿が軽くて小さな釿です。木作りは二人が一組となって行います。しかし釿打ちの下手な大工は組むのをいやがられ、相手にしてもらえないので、誰もが一生懸命になって釿打ちの技術を身に付ける努力をしていました。 大工は頭にねじり鉢巻をして身を引締め、狂いの生じている松材の木作りを始めるのです。軽くて小さな釿を使って狂っている面を片方が「コン」と打てば、反対側の相手も狂っている面を「カン」と打ち返し、双方が調子を合せて「コンカン、コンカン」と木作りの仕事を進め、どちらかが節などの面に行き当り、はつりのリズムが乱れると相手側は「空打ち」といって木をはつらず釿の柄の頭の部分で軽く木をたたき、リズムを合わせながら調子をとり合っていました。 この木作りの釿打ちの音色は遠くから聞いていても大変に快適なリズムです。親方は「ここで新築工事が始まったよ」と村人たちに通報する触れ太鼓のようなものだからと言って、職人連中に釿のいいリズムの音色を出すよう注意をうながしていました。その快適な音色に釣られてか、一人の爺さんが親方のところに来て「私ところも明年あたり母屋を建てかえようと思うが」と相談をもちかけていました。 家で一番大切な大黒柱や恵比須柱(向大黒)の木作りには釿は使わず、弟子の私が丸鉋を使って木作りをしていました。筵を敷き、輪木の上に大黒柱を寝かせ、膝を立て丸鉋を使って追い目にそって斜けずりで大黒柱や向大黒の狂いを直していました。欅材や櫻材が多く、堅くて、大きな2本の柱の加工が終る頃には、ズボンの脛の所に大きな穴ができていました。大黒柱の仕上り寸法は8寸8分というのが多く、末広がりという意味が含まれているのです。 茶室の床柱などには杉の磨き丸太に釿を使って「ナ

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