大工道具に生きる / 香川 量平
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釿(詳細不明)32御縁でないのか、などと古稀の歳になっても興味が尽きません。閑話休題 12月30日の夕方、親方の仕事場での「釿仕舞い」のお祓いが終ると親方から半年分の小遣いをいただき、私は作業服と下着を背負い、釿を新調したいと考えながら我が家へと急ぎました。父母と弟二人が迎えてくれ「兄貴は歩く格好が大工らしくなった」と言うのです。実際に外足になったのは事実でした。親方は毎日私に向って「お前の歩く格好が大工らしくない『大工の外足、芸者の内足』という大工言葉の通り、外足で歩け、大工は高い所で仕事をせねばならぬ、外足が安全なのだ」と毎日のように注意されていたので外足になったのであろうか。母は腹一杯「銀めし」を食べさせてくれました。戦後早々のその当時には「銀めし」(白い御飯)を食べられることなどありませんでした。特に大工の弟子などは碌なものを食べさせてもらえず重労働の毎日でした。 食事の後、父に「弟子入りして半年にもなるが釿はつりが上手になれず、兄弟子に毎日辛く当られるので、この小遣いを足しにして釿を新調しようと思っているのだが」と恐る恐る相談すると意外に心良く承諾してくれ、「小遣いは持っていろ、二之宮村に『信安』という知人の有名な鍛冶屋がいる、頼んでやろう」と言って信安の昔話を聞かせてくれました。「土佐鍛冶の流れを汲み、すこし荒っぽいが刃物の切れ味は抜群だ。話によると若い頃、自分の鍛えた大鉞を使って杣人とはつりの競争をしたり、釿を鍛えると大工とはつり試合をして勝ったことがあると言う異名を持つ変り鍛冶だ」と昔話を聞かせました。 正月の二日の早朝、親方の仕事場で、仕事始めと呼ばれる「釿始め」を行いました。14尺の松丸太を兄弟子が元から、私が末からはつり出したが3分の1ほどの時、兄弟子の釿が近づいて来て「どけ」と正月早々からどなられましたが、その当時の弟子は親方や兄弟子に楯突くことのできない鉄則の掟のようなものがあり、辛抱するしかありませんでした。 新年の事始めとしての「釿始め」の儀式は厳島神社など全国で十数ケ所で行われていますが、自主的に各地で復元されつつあると言われています。釿始めの古い儀式の原型が『古語拾遺』という古い書物に残っているそうですが、釿始めを「木作始め」ともいって、木の樹魂を鎮める祭事であったようです。釿始めに歌われる「木遣り歌」など、奈良薬師寺の釿始めの儀式以降、聞いたことがありません。 父と「信安」に会ってみると私に「手を見せろ、器用な手をしているが、かなり手を痛めている、釿で向う脛をやったことがあるか、3回や4回は向う脛に釿をぶち込まんと上手になれぬ。いい釿が仕上っている、釘も切るという逸品だ。若いお前には品が良すぎる、琴平宮の宮大工の棟梁に依頼を受けて鍛えた3挺の内の1挺だ、持ってみろ、柄を脇の下に入れて右手で柄の先端が握れるか。」「いい具合だ」と言ったら「すこし山を高くしておいて良かった、今の若者は背が高いからのう」と言ったので「山とは何ですか」と聞くと、「お前は大工だろうが、鍛冶屋に聞くとは何事だ、昔の釿の仕込に言われている『7寸山の4分こごみ』という言葉を良く覚えておけ、この言葉を知っておれば柄の仕込は何のこともないのだ。大工どもは『釿買うなら櫃を買え』と言って釿の櫃ふれを嫌っている。その釿はすこしの櫃ふれもないから安心しろ」と信安が私に忠告した言葉が十分に納得できないまま「はい」と答えていました。 父の支払が終ると「お前に怪我なきようこの『信安』の釿にお祓いをしてやろう」と言って御幣を持ち出して本式のお祓いをしてもらいました。その釿を手にした時、私は妻を娶ったような嬉しさでした。その後「信安」の釿によって兄弟子を見返したのは言うまでもありません。しかしこの逸品の釿も15年の後に「さい」をやらねばならぬ運命にさらされました。釿の刃先の鋼が摩滅し、新しい鋼を入れ換えなければならなくなったのでしたが、見事に復原され、私の片腕として長年働いてくれました。(削ろう会会報19号 2001.09.03発行)

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