大工道具に生きる / 香川 量平
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石山縁起より その17  釿の話(7)35 第10回削ろう会の安来大会の会場の昼休み、神奈川県厚木市の大工棟梁、前場幸治さんと東西の大工道具の話をいたしました。数ある大工道具の中には呼び名や使い方が東西ですこし違っている道具がありました。「釿」では昔「てうな」と関東では呼び、関西では「チョンノ」あるいは「チョンナ」と呼んでいたことを知りました。「釿」の語源には諸説はありますが、松山市の鍛冶師白鷹幸伯さんの、古い昔「ておの」と呼んでいたのが次第に「ちょうな」という言葉に変化していったのだろうという白鷹説が正しいと、二人の意見が一致しました。 釿の歴史は大変に古く、弥生時代の掘立式の建築には、釿が主役として大いに役立ったものと考えられます。飛鳥時代には大陸より仏教導入と共に仏教建築が紹介され、礎石の上に柱を立て桝組で軒を支え、屋根には瓦を葺く新しい建造物を作り上げました。渡来した工人と共に働いた日本の技術者は渡来した工人が持参してきた数多くの大工道具を正目手本として、新しい日本式の大工道具を作り上げて、世界遺産で、現存する最古の木造建築、法隆寺を作り上げたのです。白鷹幸伯さんは、法隆寺大工棟梁、故西岡常一氏より法隆寺修理の折、鉇やりがんなと古代釿の刃跡が残る桧の木片をいただいている。白鷹さんはその刃跡を考察して、鉇やりがんなと古代釿を復元しています。私は木片に残る刃跡の力強さに驚きました。古代釿は櫃が貧弱で両手で使用するのは無理であるという説がありますが、私は片手釿などではなく両手を使って使用したものと断定いたしました。 昔の絵巻物の「春日権現霊験記」「石山寺縁起絵巻」「大山寺縁起絵巻」の中に釿を片手で使っているのが見られるのですが、これらの絵図は絵師が釿という大工道具を理解せずに描いたもので信用できません。釿という道具は片手などで幾日もの使用に耐えられるものではありません。耐えられるとすると「手釿」と呼ばれる片手用の小さな釿です。釿ばつりを三日間続ければ体力の消耗がはげしく、夕方、釿の柄から手が離れなくなり、一本一本の指を引き離さなければならない状態になるのです。この苦痛は釿ばつりの経験を経た古い大工でなければ知り得ないことです。釿の柄は槐の木で作られたものが最高で掌の汗を吸い取り摩擦をやわらげる利点があるのですが、幾日も使用する折には槐の柄でもいろいろと無理が生じるようです。 古代釿は櫃が貧弱であるため両手使いは無理であるという通説がありますが、両手で使っても大丈夫と言ったのはアメリカ人のアラン・トリゲイロさんでした。彼は第10回の削ろう会安来大会に古代釿を持参してアメリカの削ろう会から参加して下さった青年でした。直井棟梁より釿使いの指導を依頼されていましたが、彼の釿使いに非の打ちどころがなく私よりも上手だと直井棟梁に申しました。唯、日本には化粧ばつりという技法があり、大工の技術を人に見せるため「矢羽根ばつり」を説明し、指導いたしました。 削ろう会安来大会の会場では前場幸治さんとの大工道具ばなしが続いていました。東西の話で少しの違いもなかったのは「本ロツソレタノヤマキ」という大工言葉で、この言葉は昔の大工が使っていた数字の隠し言葉(隠語)でした。私が若い頃、古老の大工がこの言葉を使って話をしていたのを一度聞いたことがあります。「本」は1、「ロ」は2、「ツ」3、「ソ」4、「レ」5、「タ」6、「ノ」7、「ヤ」8、「マ」9、「キ」0(ゼロ)という数字を表わします。「本キキ」と言えば100で百の数字を表わす意味です。大工には面白い隠語が今も数多くあります。「下端」と言えば木材の下側ですが、隠語では「妻」を意味します。女は下になるからです。「下端を取り付ける」と言えば隠語では「嫁をもらった」ことです。大工の隠語については後日、書かせてもらいます。 前場さんと最後に足に残る釿の傷痕を見せ合いました。前場さんの左足には大きな釿の傷痕が数カ所ありました。私は右と左の向こう脛に釿の傷痕が残っていますが、この傷痕を見るたびなぜか昔の無念さが身体の底から込み上げてきて、目頭が熱くなってしまうのです。

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