大工道具に生きる / 香川 量平
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36 真冬でも暖かな瀬戸内ですが珍しく、シベリアからの冬将軍が押し寄せてきた寒い日のことでした。親方は大きな木造の家を請負っていて、親方と職人2人、兄弟子と私の5名で家の上具材に使う大きな松の丸太を十二角に釿を使って瓜むぎしていました。私は「信安」が鍛えてくれた釿を使って兄弟子をどんどん追い上げていました。「10時が来たから休憩だ」と寒風の中で親方の声がした時、最後にはつった釿刃が向こう脛に「コツン」ときたのです。「シマッタ」と思ったのですが後の祭り、脳髄を突き抜けるような痛さを感じました。 傷口は白く、兄弟子が急ぎ、血止のヨモギの青葉を揉み解し、鉢巻を裂いてぐっと縛ってくれた時、首筋に「ピシャッ」と指金が飛んできたのです。血が首筋を流れ落ちるのを感じました。「ぼやぼやしとるからだ」と大声で怒鳴られたのです。うつむく私の目から大粒の涙がポタポタと落ちたのです。大工の三宝の一つに数えられる神聖な指金が一変して凶器と化すのです。日本の指金の中には数知れぬ規矩術が潜んでいるのですが、指金の神である「八意思兼神」は手荒な神であるため凶器と化し、大工の弟子たちは、この神を誰もが恐れていました。 私はその時親譲りの短気が爆発し、堪忍袋の緒がとうとう切れたのです。涙を押え、畜生と小声で言いながら痛む足で立ち上り、親方に向って、「大工はもう止めた」と大声で叫んだのです。職人や兄弟子が驚いた顔で私を見つめていました。兄弟子が「辛抱しろ」と言うのを振り切り、痛む足をかばい自転車に乗り、一目散に家へと逃げ帰り、戸口の前で「今日で大工は止めるぞ」と大きな声で言ったのです。私の大きな声に驚いて、前のイソ婆さんが私の血を見て「量さん一体どうしたんだ」と震える声で「早く血止を」と小さな婆さんが私を家に押し入れようとしました。婆さんは私を子供の頃から、我が子のように可愛がってくれていました。家に入ろうとした時、母が「マッタ」と言って私を家の中に入れようとしません。婆さんが「ソノさん、この子は血が多く出ているので顔が真っ青だ、早く血止をせねばならん」と言って婆さんは必死になって私を家の中に押し入れ、父の血止の手当てを受けたのです。父は私の顔色を見て「親方の辛抱ができなかったのか」と聞きましたが、私は何も答えませんでした。「昔から大工の弟子は誰もが二度や三度は親方や兄弟子の辛抱ができず逃げ帰っている。お前がいつ逃げ帰るのかと心配していたが、三年目とは良く辛抱したものだ」と私が逃げ帰ることを予測していたようでした。 私は父の薬草での血止の手当てを受けながら痛みを堪え、母が「マッタ」と言った一言を考えていました。私が大工になると父母に打ち明けた時、母は「お前の貧弱な身体では無理だ、兄たちのように大学に入って勉強し、いい会社に就職すれば一生涯安泰だ」「勉強は嫌いだ、刃物と木組が好きだ」「お前は父譲りの短気もので、言い出したら後に引かぬ悪い性分だ。大工の修業には耐えられないで、逃げ帰るのがおちだ」「決して弱音など吐くものか、どんな大工仕事もできる職人になり、将来は建築のすべてを知りつくし誰にも好かれる大工の棟梁になるんだ」「ほう、大工の棟梁だと、とっと(鶏)が笑うわ」と母と押し問答をくり返していましたが、言い出したら後に引かぬ私の性分を知る母は「お前の思う通りにしろ、但し言っておくが大工の修業が出来ず途中で逃げ帰っても決して家に入れないから覚悟して弟子入りするんだぞ」と母に釘を刺されていたのです。だが、とうとう弱音を吐き、逃げ帰った今、母に負け、大工の棟梁になるなどと言った夢も消え失せ、将来どうしようか、母にどう言ってお断りしたら良いのかなど、心の中で泣いているうちに、私は深い眠りに落ちて行ったのです。 翌日から父が作った寒鮒の刺身を毎食腹一杯食べ、「好きなうどんは傷には毒だ」と父は言って傷口を「ゲンノショウコ」の煎じ汁で洗ってくれました。ゲンノショウコの煎じ汁が良く効いたのか、鮒の刺身が功を奏したのか傷口の回復は意外に早かった。回復後、父母に諭され、親方にお断りして大工の道に復帰しました。その後2年間一生懸命になって精進したのは言うまでもありません。閑話休題(はなしはさておき) 会場で私の話を聞いていた前場さんも、その当時を思い出してか涙ぐんでいました。その当時の大工は朝早くから夕方暗くなるまで仕事をしていたので「大工の釿さがし」という大工言葉が今も残っています。暗くなるまで仕事をするので釿の所在がわからないという意味です。『雍州府志』に書かれていた「径五寸あまりの釿刃」を何の事なく使っていると書いているが、今も、この釿刃を使っている大工が大勢いるのに驚かされている。(削ろう会会報21号 2002.02.03発行)

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