大工道具に生きる / 香川 量平
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千代鶴是秀の鉋の字39め、その建造物の棟梁は落雷を恐れて、新築の棟札には火伏せの神であり水神でもある「罔みずはのめのかみ象女神」を書き付けます。また新築の棟札に下端に「水草」と赤白の熨のし斗で結び、火伏せの呪まじないとして上棟式を行う棟梁も四国にはいます。閑話休題 我が国の縄文時代には石斧が万能の道具の一つでした。石斧には縦斧と横斧の二通りがあり、縦斧が現在の斧の祖であります。縦斧の歴史は大変に古く、古代中国の土器が河南省から出土しました。それは高さが47cmあり「鳥魚石斧紋深鉢」と名付けられ、中国の国宝展に出展されていました。約5000年も昔のもので、側面の図柄の右側に石製の刃を木製の柄に装着した斧が描かれ、左側には魚をくわえた鳥がいます。その昔、石斧は生産の道具でもあり、戦に使用された武器でもありました。この土器は戦勝を天の神に祈るためつくられたものではなかったのかと説明されていました。古代中国では約5000年の昔、木製の柄が付けられた石斧がすでに使われていたのでしょう。 古代エジプトでも石斧が使われていたのか、テーベ墳墓の壁画の中に柄が付けられた石斧を使って木材と思われるものを打ち割ろうとしている図があります。この墳墓は古代エジプト第18王朝の貴族で宰相であったレクミラ建設大臣の墓で、厚木市の大工棟梁である前場幸治氏が撮影したものです。墓は紀元前約1500年の昔に建造されたものですから約3500年前に描かれたものです。しかし斧の刃が石製であったのか銅製であったのかを知ることができません。紀元前約2000年前に銅の精錬技術の記録があるそうですので銅製の斧かも知れません。 我が国の縄文時代には万能の道具であった石斧も弥生時代の中頃になると、中国大陸や朝鮮半島から鉄が伝えられ、鉄斧と呼ばれる鉄の刃物が造られるようになって、石斧は姿を消します。大陸から伝えられた鉄の素材を「鉄鋌」と呼んでいます。日本書紀の中の神功皇后46条に、百済の「肖古王」から日本の使臣に鉄鋌40枚を与えたという記録があるそうです。この鉄の素材は板状のものや棒状のものでした。時代が下がると共に鉄鋌は小型化したいったようですが、その当時「鉄鋌」は貨幣としての価値がありました。私は釜山の市立博物館で「杜邸洞五号墳」から出土したという鉄鋌を見たことがあります。昔の弥生人たちは鉄という強靱で鋭利な刃物を手にした時、驚きと喜びの声をはり上げたことでしょう。鉄が導入されると共に稲作も伝えられ、稲作に適した土地に人が集まり村ができ、鉄の刃物によって暮らしに必要な建物や数々の木製品が作られていったのです。しかし弥生人たちは大陸から伝えられた鉄の素材から刃物を造り出すのは一苦労したことだろうと考えています。鞴ふいごもなければ鉄かなとこ床や大鎚に鉄箸もなく、大石を鉄床にし石を大鎚としたのでは無かったかと考える人もいますが朝鮮半島から渡来した韓からかぬち鍛冶によって倭やまとかぬち鍛冶の技術は向上していったのです。 苦労した倭鍛冶の伝説話が今に残されています。「ある村で鍛冶屋が鉄を真っ赤に焼き、今日こそは鉄をくっつけようとするのですが何回繰り返しても失敗に終わってしまいます。頭にきた鍛冶屋は焼けた鉄を外に投げ出します。夕方稲藁の上に投げ出されていた鉄を見ると完全に鍛接しているではありませんか、鉄は稲藁と土によって鍛接されることを知ったのです」稲藁と土が現在の硼砂の役目を果たしていたのです。もう一つの鍛冶伝説は「ある村に一人の鍛冶屋がいました。今日こそは鉄をくっつけようと鍛冶場の入り口に注連縄を張り、火をおこして仕事を始めますが焼けた鉄がどうしても鍛接できません。何回となく繰り返すうちに腹が立ってきます、ふと見ると白狐が鍛冶場に入ろうとしています。『カッ』ときた鍛冶屋は真っ赤に焼けた鉄を白狐めがけて投げつけます。白狐は入り口の注連縄を外して丸め、焼けた鉄を受け止め、土ぼこりと共に鉄床の上をめがけて投げ返してきたのです。『アッ』という間の出来事でした。鍛冶屋が鉄床の上を見ると、投げ返された鉄が鍛接されていたのです。鍛冶屋は大声を上げて喜びます。鉄は藁と土によって鍛接されたのです。」白狐は優秀な鍛冶技術を持つ韓鍛冶であったのです。 この話は、倭鍛冶と韓鍛冶の出会いの物語が伝説として今に語り継がれているのです。鍛冶屋が稲荷神の「宇迦之御魂大神」と呼ばれる稲作の神を守護神として崇拝し信仰しているのです。故千代鶴是秀翁も稲荷神を守護神としていたようで、「削ろう会」の鉋の字の左側が金偏ではなく狐の形になっているのをご存じでしょうか。(削ろう会会報22号 2002.06.03発行)

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