大工道具に生きる / 香川 量平
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40 その19  葦那部真根と斧 今を去ること約1300年昔の奈良時代に舎とねり人親王らによって『日本書紀』という書物が書き表されました。その主な内容は古い神代の時代から第41代の女帝であった持統天皇までの皇室の歴史などが書かれております。またその数年前に元明天皇の勅命によって太おおのやすまろ安万侶らが『古事記』も書き表しました。しかし両者とも難しい漢文で書かれているので、そのうち学者たちによって誰もが容易く読めるように書き改められ、現在に至っております。しかし文字を知らなかった神代時代の神話の話などは「語り部」という朝廷に仕えていた記憶力の優れた人たちによって、親から子へ、子から孫へと語り伝えられていました。その『日本書紀』第14巻の項に第21代の雄略天皇の説話が書かれております。 「秋九月に木工(大工)の韋いなべのまね那部眞根、石を以て質あてとして、斧を揮りて材を削る。終日削れども誤りて刃を傷めず。天皇、そこに遊詣して不思議がりながら問う『いつも石に誤ってあてることはないのか』と言った。眞根、『決して誤ることはありません』と答える。天皇は官女を呼び集めて衣服を脱がせ、たふさぎして、眞根の見えるところで女相撲をとらせた。眞根しばらく停めて仰ぎ見て削る。不覚にも手の誤りに刃、傷つく。天皇は因りて眞根の罪を責めて『どこの奴だ、朕を恐れもせずして貞しからぬ心を用いて軽率に嘘を答えておいて』と言った。そこで物部に託して、野に刑させようとした。ここに仲間の大工がいて、眞根を嘆き惜しんで、歌詠みして。『惜しいなあ、葦那部の工匠(大工)よ(彼の)懸けた墨縄 彼がいなかったら誰が懸けるのか 惜しい墨縄』天皇は、この歌を聞き、後悔して、ため息をつき嘆いて『もうすこしで人を失うところであった』と言い、すぐに赦す使いを甲斐の黒駒に乗せて刑場に馳らせ、刑を赦した。そこで結縄を解いた。また歌を作った。『ヌバタマのように真っ黒な 甲斐の黒駒に鞍をつけていたら 命を落していたろうな 甲斐の黒駒よ。』と。」眞根の救命にあたった仲間の大工や眞根が喜びの声で詠んだのであろう。 しかし「雄略記」に大工道具の斧や墨縄(墨壷)が登場しますが、その当時の斧や墨縄はどんな形をしていたのでしょうか。墨縄と呼ばれていた墨壷は現在のように優れているものではなく幼稚なものであったと思われます。故吉川金次氏は斧の著書の中で、韋那部眞根が、その当時使ったと思われる斧は、大阪の富田林市の眞名井古墳から出土した斧のようなもので丸太の側面を削って角材にしていたものでないのか、そのような斧で丸太を削るならば、油断すると石の質で刃を欠く可能性は大いにあると説明しております。しかし私はそのような幼稚な斧ではなく、眞根が削っていた斧は大型の優れたもので、現在、中国などで使われているのと同型のものでなかったのでしょうか。現在、各地の遺跡で発見されている建築跡の柱穴は直径が50cm以上のものが多くあり、その柱穴から推察すると、かなり大きな建造物であったことを伺い知ることができます。掘立柱とはいうものの、これだけの建造物を建築するにはかなり高度な建築技術を持つ大工と優れた大工道具が必要と思われます。そのような優秀な建築技術を持つ大工の棟梁である韋那部眞根が、些細な間違いで雄略天皇になぜ殺されようとしたのでしょうか。 いろいろと説はありますが、『日本書紀』に登場する雄略天皇は誤って人を殺すことも多く、天下から悪い天皇であったという説があります。しかしその反面では意外に積極的に大陸の文化を受け入れようとした積極的な天皇であったとも言われています。すでに百済では仏教建築が行われ、掘立柱などではなく、礎石の上に柱を立て、桝組で軒を支え、屋根に瓦を葺き、木部や大きな丸柱に丹を塗り、高層の見事な仏教建築が建立されていたのです。雄略天皇は百済の高度な仏教建築に着眼し、その建築を導入しようと考えていたのかも知れません。仏教建築を知らなかった新羅系の韋那部の技術集団は次第に百済系の工匠たちによってその地位を追われます。韋那部眞根が些細な間違いで死に追い込まれようとしたのは、韋那部の技術集団の没落を意味していたと思われます。 しかし今も、上棟した家には3つの間違いをするものだという言い伝えが昔からあります。雄略天皇も眞根が建てようとした宮殿に、間違いをつくろうとしたのかも知れません。昔から「完全無欠の家は建てるな」という諺が大工の間で言われております。すこしの間違いもなく完全無欠で仕上げられた家というのは、山の頂上に登りつめた状態を意味しています。次は下り坂となります。完全無欠で仕上げられた家は、次第に家運が下り始めるのだと昔から言い伝えられているのです。大工の棟梁は施主の家運が上昇するよう3つの間違いを作り、家を完全無欠には仕上げず、9分9厘で留めていたのです。また左官の棟梁も、壁塗りを完全に仕上げず、9分9厘で留めていました。今も古い家の床の間の落し掛けの裏側は土を塗らず、小舞の竹

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